一ノ井と井料米

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石部から取水し、栗太郡の栗東町域を灌漑する一ノ井は、それら下流の村々にとって欠かすことのできない水路であった。
 寛永(かんえい)二十年(一六四三)の「八郷一ノ井より毎年御上ヶ候川酒之事」によれば、酒・米・飛魚・わかめ・口明之祝の五口、合計三石三斗を三月二十日に石部宿へ差し出すことが記されている。
 元禄十一年(一六九八)に一ノ井は、野洲川対岸の今井・中ノ井と水論に及んだ。その「水論裁許書」と絵図が現在も残されている。
 これによると、一ノ井組はこの当時、伊勢落・林・手原・小野・今里・土村(どむら)・大橋・六地蔵・小坂の九村であり、古くは鈎(まがり)の二郷を加え一一村によって構成されていたという。また、寛永九年(一六三二)中より、石部宿に対し「井料米(いりょうまい)」(井堰使用料)を一一村の時は、小升三石三斗、九村になってからは京升二石三斗二升を納めていた。これは先の「川酒」のことをさしているものと考えられる。
 その後、六地蔵・小坂の二村は一ノ井から抜けて、七村の構成になった。毎年納められる「井料米」の請取書によると、構成村が一村ごとに担当している。大橋・土村・小野・林・伊勢落・手原の順に回り、手原が三巡のうちの二回、他の一回を今里が負担していた。この六回で一順する事から、一ノ井は六郷井組と呼ばれていたようである。
 以上のように、下流の栗太郡の六郷井組の村々に対して、取水口のある石部は強い水利権をもち、「井料米」を取っていたのである。しかし、石部に対しても、六郷井組の村々は規制力をもっていた。たとえば、延享(えんきょう)二年(一七四五)に、石部に小右衛門が新田を開発した。この時彼は、一ノ井組庄屋衆中に対し、その井組の用水不足をもたらすような野洲川からの引水はしないとの証文を出している。
 また、明和(めいわ)三年(一七六六)にも、小右衛門新田と思われる場所に、満水時の「ふせぬき」の埋樋が取り付けられた。このことに対し、一ノ井組の役人に一ノ井の妨げとならないようにすることと、もし、妨げとなった場合に掘り返されても異論がないとの証文が差し出されている。
 これらは「井料米」納入に対して、石部が示した一ノ井の権利保証を示すものである。このような慣行が守られたために、一ノ井組との間に大きな水論が起きなかったものと考えられる。

写123 六郷一ノ井・野洲川取水口 伝統的水利秩序を守る一ノ井は、栗東町の村々の耕地を潤している。