石部町と関連のある水論で最古の史料として、『石部町史』の引用する「山中文書」がある。永禄(えいろく)三年(一五六〇)に柑子袋衆・夏見衆・岩根衆らが石部三郷と争った事件である。その後、永禄八年(一五六五)に伴・山中・美濃部らの諸氏が仲裁に入って事件は落着することとなった。この水論は、「井路」をめぐるもので、かなり広域に及ぶ水論であったことから考えると、村落間を結ぶ井組がすでに中世に発生していたと考えられる。
この水論が示すように、上流の村むら(現甲西町)との間に度重なる争いがあった。栗太郡の村々に対しては、上流に位置するが、甲賀郡の中では最下流部に位置するために、水利権をめぐり諸種の問題が生じたのである。
特に、柑子袋村との水論は長い間にわたって争われた。『石部町史』によれば、貞享(じょうきょう)二年(一六八五)に、「こご原井」をめぐる水論が起こる。野洲川の対岸を含む七ヶ村の庄屋の連署から、広域的な争いであったことが知られる。ついで、明和七年(一七七〇)には、「いきなし井」を対象として、石部・柑子袋両村間の紛争が起こった。しかし、両事件とも史料を欠き詳細なことはわからない。