谷中川をめぐる水論

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石部・柑子袋両村間の水論は、明治になって大審院へ提訴するまでに発展した事件が最大のものである。
 寛政(かんせい)五年(一七九三)東寺村は、竹谷川の流れに沿った新田の養水のため、溜池を新設した。しかし、水量不足に悩まされたので、文政(ぶんせい)五年(一八二二)に谷中川よりこの溜池に新溝を引いた。ところが、谷中川から三八町余の田地に引水する柑子袋村は、東寺村と水論に及び、結局、夏の渇水時のみ東寺村が引水することで水論は落着した。
 明治十六年(一八八三)の大旱魃に際し、東寺村は谷中川から溜池に引水し、柑子袋村の田地への養水を止めることとなった。そのため水論が起こり同年八月二十七日、警官が出動する事態に発展した。両村は協議し、分水方法を定めた。その後降雨があったため、その分水法はいったん解除された。しかし、柑子袋村は、将来旱魃に際して東寺村が引水することを恐れ谷中川の水利権を主張し、翌年七月大津始審裁判所に訴えた。訴状の概要を示そう(『東寺地区共有文書』)。

 


写124 谷中川(東寺字下山田付近)・ 竹谷川(広野橋付近)
竹谷川は東寺・西寺の字界をやや東寺よりに流れる川。谷中川は、阿星山から紫雲の滝を経て、東寺と柑子袋との境界付近を流れている。

 原告村(柑子袋村)ニ総轄スル田地九拾八町有余歩ノ内、別紙(省略)ノ田面ハ三十八町有余歩ニシテ、之レガ養水タル本川即チ字谷中山川筋ヨリ潅漑スルノ外ナシ、而シテ該谷中山川ハ原告村(平松村ト共有)所有ノ山間ニ其水源ヲ有シ、元来原告村ノ該田地養水川タルハ天然ノ地形ト山地所有ノ故蹟等ニ徴シ既ニ明確タリ、偖(サテ)又被告村(東寺村)ハ右谷中山川ニ落合セル一ノ支川タル養水源ヲ有シ、以テ同シク谷中山川筋ヨリ絵図面(省略)ノ田地凡ソ拾町余地ヲ潅漑セリ、然シテ此水利権ヤ原被間田地ノ広狭ト水源ノ大小トニ因リ、自然優劣ノ関係ヲ有スヘキ

 ことを前提として、前年のような非常旱魃に際して、川上の東寺村が一方的に養水を止めることのないよう、事前に旱魃に供する養水引用方を定めようとするものであった。
 原告ハ該川ニ於テ固有スル優等ナル水利権ヲ可成的彼レ被告ヘ譲リ、之レヲ対峙トシ当分ニ其引用ヲ求メンニ、凡ソ該川水量ノ多寡ニ従ヒ、原被間交番(カワリバン)ヲ以テ仮令(タトヘ)ハ一昼夜若(モシ)クハ二昼夜送(タガ)イニ之レヲ引用セハ雙村此好方便ニ依リ、水利宜シキヲ得ルノミナラズ、其引用日ニ当ラハ一方充分随意ニ之レヲ潅漑シ得ルノ便益ヲ修メ分量ノ権衡ヲ全フスヘキナリ

 とした。水利権の分割を意味するこの訴えに対して東寺村は、谷中川の水源が東寺村の所有山林にあることなどを理由に水利権を主張した。明治十八年(一八八五)一月、大津始審裁判所は東寺村の主張を認め柑子袋村の訴えを退けた。柑子袋村はそれを不服として同十九年に大阪控訴裁判所に控訴したが敗訴、同年大審院の控訴棄却をもって事件は落着することとなった。
 以上のように、石部三村は上流の村、特に柑子袋村との永年にわたる水論に終始符を打つことになったのである。このような水論には、禿山から流下する天井川の水量の絶対的不足に起因することが多かった。しかし、近代の砂防堤構築や植林などによって土砂流出を防止し、さらには石部頭首工による野洲川の水量調節などが図られ、水不足の悩みは一掃されるに至った。