百姓一揆

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天保十三年(一八四二)十月、甲賀・栗太・野洲三郡の農民が野洲郡三上(みかみ)村に集結して幕府の勘定役人の旅宿に押しかけて土地見分の一〇万日の日延を要求した。
 江戸時代に起った百姓一揆件数はおよそ三、二〇〇余が数えられている(『百姓一揆総合年表』)。一揆の目的としては年貢・小作料の減免、夫役(労働課役)の廃止など封建的諸負担の軽減を求めるところにある。一揆は規模、組織、性格、訴願の求め方などによってさまざまで、訴願の求め方からいうとおよそ次の七つの型がある(『百姓一揆総合年表』)。
 ①不穏…集会だけで終った場合。②愁訴…所定の手続きをふんで領主にその苛政を訴える。③逃散(ちょうさん)…集団で居住地を離れる。④越訴(直訴)…直接領主に訴える。⑤強訴…徒党を組み、集団の力で強引に為政者側に訴願の内容を認めさせる。⑥打ちこわし…領主に訴えることなく豪農や富裕商人宅を襲い打ちこわす。⑦蜂起…農民が広範囲にわたって集まり、領主に対決したり、打ちこわしを行ったりする。
 三郡の農民たちが大挙して為政者側に要求をのませた訴えはこれらの一揆の形態のうち強訴にあたるわけだが、いわゆる三上騒動(甲賀騒動)と呼ばれるこの一揆はどのようなものだったのであろうか。