一揆の背景

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江戸時代の経済は「土地経済」あるいは「米遣い経済」と表現される。領主は徴収した年貢米を貨幣に換えて軍事、行政、家政などの費用にあてる。そのため領主の財政は米価や他の諸物価の影響を受け、領主経済が窮迫する大きな要因ともなる。一方自給経済を基底としていた農村では、商品、貨幣経済が浸透していくと、生活も華美になり、奢侈(しゃし)に流れがちにもなる。離村、離農していく農民の数も増え、耕作しないままの田地が各地にみられるようになる。領主経済も私生活の費用が増大し、行政費もかさんで困窮の一途をたどる。大領主である幕府も例外ではなく、文化八年(一八一一)ごろの幕府財政は「不時の御物入も莫大にて、御勝手向御不都合の儀に候」(『吹塵録(すいじんろく)』)といった状態であった。
 さらに天災地変は領主経済ならびに農村経済を悪化させていった。文化・文政期(一八〇四―一八二九)では、一石につき銀五〇匁から七〇匁の間を前後していた米価は、天保期(一八三〇―一八四三)に入ると天候不順が続き、一石につき銀八〇匁から一〇〇匁へと騰貴し、同八年(一八三七)の五月には銀二二一匁を示す高値となって天保の飢饉へと入っていった。同十年(一八三九)ごろ、近江国でも不作で米価の高騰が続き、膳所(ぜぜ)藩は米屋仲間に年貢未納以前に百姓から米の抜買を禁止する通達を出している。(『膳所領郡方日記』)。打ち続く凶作、米価高騰は世情を嫌悪化させていった。天保八年、大坂に大塩平八郎の乱が起こり、全国各地でも一揆が続発していった。このような状況の中で同十二年(一八四一)、幕府は株仲間を解散させ、また同十四年(一八四三)には農村の労働力確保のため農民の都市への流出を防ぎ、帰農を促す「人返し」の令を発するなどいわゆる天保の改革を行った。先に述べたように幕府の財政は窮迫しており、このころの幕府の財政収支は支出が収入の二倍に達したという(『吹塵録』)。三上騒動の原因となった琵琶湖辺および野洲川辺の土地見分と称して幕府勘定役市野茂三郎一行を派遣したのもこうした幕府財政改革の一環であった。

 


写125 米屋仲間鑑札 膳所藩会計方より公認の米屋仲間に与えられたもの。膳所城の別名「石鹿城」にちなんで、「石鹿」の焼印が押されている(福島隆輔氏所蔵)。