土地見分

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天保十二年十一月、京都西町奉行は仁保・野洲・草津などの諸川辺および琵琶湖辺の村々の庄屋を召喚し、これらの諸川辺と琵琶湖辺の空地・川敷・寄州などを見分する、ただし今回の見分は文政年間のそれと異なり公儀直々の検地であるので訴願は受け入れない旨を申し渡した。文政の検地というのは大久保今助という江戸の町人によるものである。その後再び天保八年にやはり江戸の町人与兵衛の進言で検地が行われた。いずれも失敗に終ったが、これほど近江が見分の対象とされるのは、豊饒の地であることや大小の大名・旗本・公家・社寺の所領が入り込んでいるために村々の団結力が弱いという幕府の見解があったのであろう。
 見分の一行は幕府勘定役市野茂三郎をはじめ、普請役大坪本右衛門・藤井鉄五郎・介添役多羅尾久右衛門手代柴山金馬、石原清左衛門手代山下五四郎以下四〇余人である。天保十二年十二月中旬、市野一行はまず野洲郡野村に入り、野村・小田・江頭・野田などの諸村を巡見した。さらに同十三年(一八四二)、蒲生郡の寺村・弓削月村などを見分して翌十四年に野洲郡三上村に入った。
 ところが市野が実地の測量をしたのはわずかに七、八ヶ村にすぎず、その他の村々では見込みによる測量とし、その上幕府の権威をかさにきて賄賂供応を強制し、その程度に応じて見分に寛厳をつけ、あるいは領主によって見分を素通りするといういい加減さであった。
 市野の丈量で驚くべきことは延宝の検地では六尺一分の間竿であったものが今回では五尺八寸に縮尺されていたのである。
 つまり五尺八寸の間竿で測量すると、延宝の検地の時より反当り約七パーセントの余分の土地が生じる。これは農民にとって余剰地の分についても年貢・雑税などが課税の負担増となり、まさに死活問題であった。そのためたとえば野洲郡小田村では一、〇〇〇余両の賄賂を贈って検地をのがれた。また野田村の場合は村界を測量しただけで五町五反の余剰地を生みだした。これを聞いた村内に五四〇石余の所領をもつ稲垣若狭守の家臣は再三五反五畝の間違いではないかと問い返したという。稲垣氏は近江山上に陣屋をもつ一万三、〇〇〇石余の小大名である。その一方で、尾張・仙台・彦根の三藩の領地には丈量せず「旗下または小藩の領分に対しては苛酷なる検地を行い、民財を貪ぼ」(『天保義民録』)ったのである。