一揆の企て

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ここに野洲郡三上村の庄屋土川平兵衛は甲賀郡杣中(そまなか)村庄屋黄瀬(きのせ)文吉・平三郎父子を訪ね農民の危急を救うべく協力を求めた。平兵衛は、文政十一年(一八二八)五月、助郷課役が大藩に軽く、小藩に重いという不公平を蒲生郡弓削村ほか数ヶ村の代表となって道中奉行に訴え改めさせたという。その人望は周辺の人々に慕われていたのであろう。その後平兵衛と文吉は甲賀郡市原村庄屋田島治兵衛とも会合して対策を協議した。天保十二年九月二十六日、甲賀郡は水口宿の万屋伝兵衛・丸屋金兵衛、野洲・栗太の両郡は戸田村の立光寺を会場として肥物の値下げを京都町奉行所に陳情するという名目で庄屋寄合いを開いた。
 庄屋寄合いに集った村々では、甲賀郡は七〇余ヶ村、野洲・栗太両郡では六〇余ヶ村であった。おそらく激論を戦わせたであろう。その結論は、甲賀の郡民は横田川原に、野洲・栗太両郡は野洲川原に集結し、まず庄屋代表が見分役市野茂三郎と交渉し、決裂すれば強訴におよぶというものであった。
 一方市野の一行は十月六日に仁保川筋の村々の検地を終えて小篠原村に移り、仙台領と斎藤領が入り組んだ田地の丈量にわずか三日でねを上げ、同月十一日に三上村に入った。この間市野は郡民の動静をつかめないままであった。庄屋寄合いへの参加の如何を問わず誰も密告する者はいなかった。水口での庄屋寄合いで司会を勤めた田島治兵衛は大庄屋の山村十郎右衛門と水口藩重役に一身を投げうつ決意の程を示し、中止勧告をもはねつけた。山村氏と重役は逆に治兵衛の決意を理解し、ほかに口外しない約束をし、それを守ったという。

写126 天保義民碑 三上騒動(天保一揆)の犠牲者をまつる顕彰碑。甲西町三雲の伝芳山山頂に明治31年(1898)に建立。毎年10月15日に天保義民祭が行われている。