庄屋寄合いに集った村々では、甲賀郡は七〇余ヶ村、野洲・栗太両郡では六〇余ヶ村であった。おそらく激論を戦わせたであろう。その結論は、甲賀の郡民は横田川原に、野洲・栗太両郡は野洲川原に集結し、まず庄屋代表が見分役市野茂三郎と交渉し、決裂すれば強訴におよぶというものであった。
一方市野の一行は十月六日に仁保川筋の村々の検地を終えて小篠原村に移り、仙台領と斎藤領が入り組んだ田地の丈量にわずか三日でねを上げ、同月十一日に三上村に入った。この間市野は郡民の動静をつかめないままであった。庄屋寄合いへの参加の如何を問わず誰も密告する者はいなかった。水口での庄屋寄合いで司会を勤めた田島治兵衛は大庄屋の山村十郎右衛門と水口藩重役に一身を投げうつ決意の程を示し、中止勧告をもはねつけた。山村氏と重役は逆に治兵衛の決意を理解し、ほかに口外しない約束をし、それを守ったという。
写126 天保義民碑 三上騒動(天保一揆)の犠牲者をまつる顕彰碑。甲西町三雲の伝芳山山頂に明治31年(1898)に建立。毎年10月15日に天保義民祭が行われている。