決起

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天保十三年十月十一日、小篠原をたって三上村へ入った見分役市野茂三郎一行は大庄屋大谷治太郎宅を本陣とし数軒に分宿した。後に述べる「江州甲賀郡騒立一件ならびに不思議成白雲出候図書記帳」には遠藤家の陣屋を旅宿にしたことを記している。
 同月十三日、土川平兵衛から密書が届くと、すぐに甲賀郡では杣中村と市原村から檄をとばした。翌十四日夜、深川市場村の矢川神社の鐘が打ちならされた。たちまち「法螺(ほら)貝を吹き、鯨波(とき)を作り、其声天地」(『天保義民録』)をゆるがさんばかりで、鶏鳴のころ(午前二時ごろ)には数千の郡民が集結した。ところが一揆勢は思いがけない方向へ暴走を始めたのである。
 今度の検地の下調役を命ぜられた五反田村庄屋久太夫と田堵野(たどの)村庄屋伝兵衛方を急襲し、再び十五日夜、矢川神社に戻った。このときすでに急を聞いた水口藩家中高田弥左衛門・岡田勘右衛門が指揮する警備隊が待ちうけていた。しかしこれにさえぎられることもなく文政の今助検地の時に下調役をした三大寺村庄屋和助方を襲い横田川に達した時には、一揆勢は二万余人にもなっていた。泉村には水口藩家中細野亘が率いる一隊がいる。これと相対するように一揆勢はしばらく川原で暖をとったあと、庄屋たちは二手に分かれた。ひとつは三上村へ急ぎ、他の庄屋たちは人々を率いて三雲村に入った。ここで一揆勢に富豪から握り飯が配られ、さらに夏見村では名酒「桜川」を「湯水の如く呑」(『実録百足(むかで)再来記』)みほした。石部宿では膳所藩の警備隊長中村式右衛門の指図で富豪福島治郎兵衛から米五〇俵余(『実録百足再来記』では米二〇俵)の炊き出しの援助を受け、そればかりか「石部宿の者家々毎酒食差し出」(「旧記」『内貴寛治家文書』)した。これより甲賀の一揆勢は野洲川を北上して菩提寺村庄屋伝兵衛方を襲って三上村へと到る。三上村では野洲・栗太両郡の一揆勢と合流して総勢四万余人(『天保義民録』、『実録百足再来記』では六、七万人とする。)にも達した。同月十六日昼四つ時(午前十時)である。いよいよ見分役市野茂三郎との対決である。ではここで膳所藩郡方奉行所の日記である『膳所領郡方日記』天保十四年三月十五日の条にある「江州甲賀郡騒立一件ならびに不思議成白雲出候図書記帳」から三上村での一揆勢の様子を記しておくことにしよう。
市野茂三郎へ願候筋これ有り候とて、右三上村御陣屋方御旅宿へおよそ人数四千人余、蓑笠を着し、または竹やりを持、結掛り、其近辺の村々寺々の釣鐘ならびに半鐘をたたき、またはほらの貝を吹、大勢の人数集り、なおまた其近辺村々より御検地の取扱いに罷出候村々へも大勢集り、家をこぼち、または其内酒屋商売のものもこれ有り候て、右酒屋の酒蔵ならびに酒樽までもたたき割、さてまた家々火を付け候様子に相見へ、何分大勢の人数押掛り、市野茂三郎様御旅宿へ地下にこれ有り候およそ手丸位いの石を手に取、右市野様へ見当て候程の事にて、最早とても多人数にて手に相成り難く候様に相見へ、右三上村陣屋持合の鑓、長刀までも差し出し、おどし成られ候得ども、何分多人数の事故、中々以って手に相成り難く候ニ付、拠(よんどころ)無く御聞届方これ有り候て、御検地御改方の儀は十万日斗の日延の御書付一札市野茂三郎様より下し置かれこれ有り候

 三上村に集結した一揆勢は四、〇〇〇余人、近辺の村々の寺の釣鐘、半鐘を打ちならし、酒を飲み、はては家々にも火を付けた様子、その風体はというと、蓑笠をかぶり、竹槍を持ち、法螺貝を吹き、市野の旅宿の前では手に手にこぶし大の石を持ち、市野めがけて投げつけんばかりである。市野一行も槍、長刀でおどしにかかったが、そのようなおどしに憶する農民たちではなかった。憎悪に満ちた農民達の迫力の前に市野もついに屈して一揆勢の要求する検地の一〇万日日延の書付を下げ渡し、世にいうこの三上騒動が収まったのである。