写127 百姓徒党の情報 『膳所領郡方日記』天保13年10月15日の条には、徒党をなした百姓が石部宿周辺へ近づきつつあることを膳所へ注進され、膳所藩は石部宿に対して非常体制をとるよう指示している。
強訴を企てた者、内談会合に参加した者、乱妨狼藉を働いた者など一揆に関わったとみられる者が次々に捕えられていった。発頭人である土川平兵衛以下市原村治兵衛・杣中村平治郎・宇田村宗兵衛・針村文五郎・氏川原村庄五郎・松尾村喜兵衛・深川村安右衛門・上野村九兵衛・大原村惣太郎ら一一人は江戸送りとなった。天保十四年(一八四三)三月四日、唐丸籠(とうまるかご)に罪人として乗せられた一行は大津を出立して草津、石部、水口、土山と厳重な警備の下で江戸へと向かう。
長い間の入牢と拷問のため見る影もない姿となっていた。宿々には妻子や親族、郡中の人々が見送りに、暇乞にと待ちうけるそのありさまは「蚊の啼くごとく悔みけるそ、言語に述かたく風情」であった(『三上騒動始末記』)。生きて再び故郷の土を踏むことがかなわぬ一一人、宇田村の宗兵衛は石部宿で死去し「仮埋」となり、「人のため身はつみとがに近江路を別れていそぐ死出の旅ぞら」と石部宿で詠んだ上川平兵衛の歌に涙を流さぬ者はいなかったであろう。
写128 江戸に連行される一揆指導者名 天保14年(1843)3月4日、唐丸籠に乗せられ江戸へ連行される一行の名前の上に三上山と陣屋が描かれており、三上騒動の結末をどこか象徴的に示している(『膳所領郡方日記』)。
この一揆で取調べを受けた村はおよそ四〇〇、甲賀郡民だけでも一万二、〇〇〇人余にのぼった。
石部関係では、『膳所領郡方日記』の天保十四年一月二十五日条によると、甚助・千吉・久兵衛(字鵜目町)・丈助・又八・伝次郎(字谷町)・源次・仁兵衛(字大亀町)・清助(字平野町)・千七(字下横町)・嘉兵衛(字東清水町)ほか一人(名前不明)の一二人は幕府勘定役市野茂三郎の旅宿につぶてを打って咎をうけたが、いったん帰村を許され、町役人に預けられた。さらに石部宿の太助と柑子袋村の松兵衛は一揆の道案内をした疑いで取調べを受けた。松兵衛は他領(淀領)の者であったので帰村したが太助は縄を打たれた(同一月二十九日条)。また辰蔵・岩吉・長蔵・三五郎らは大津入牢となった。同四月十三日条によると、石部宿の者と栗太郡勝部村の源蔵の大津入牢中の飯代とそのほかの入用銀が一貫二〇匁余で、さらに同九月二十二日条には、「一、銀百二十四匁八分四厘 銭二貫二百文 岩吉」、「一、銀百□十(カ)一匁四厘 銭二貫文 辰蔵」とある。拷問を受けあるいは風邪を病み数多くの者が牢死した。石部の三五郎もその一人で、岩吉、辰蔵も拷問を受け、衰弱していたのであろう。その岩吉・辰蔵と長蔵は中追放に処せられた。中追放というのは現在居住している国や罪を犯した国を含めて武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・下野・日光道中・甲斐・駿河の諸国に足を踏み入れてはならないというものである。そのほか石部関係で罪を受けた者を記すと次の通りである。
所払…地方年寄兼問屋八郎左衛門
過料銭三貫文づつ…庄屋兼問屋次郎兵衛・同又三郎・庄屋助役仁左衛門・庄屋見習治三郎・問屋清七・八郎次・問屋兼地方年寄五郎兵衛・年寄利助・政七・孫八
急度叱り…地方年寄十右衛門ほか三三人
手鎖…安五郎・藤左衛門・伝次郎・文八・又助・甚助
もちろんこの一揆で処罰を受けたのは農民ばかりではない。水口・膳所の藩士、市野茂三郎に随行した多羅尾久右衛門・石原清左衛門の手代なども押込に処せられた。特に石部宿で一揆勢のために炊出しを指図した膳所藩普請方目付兼帯の中村式右衛門は江戸表にて江戸十里四方、近江国御構を言い渡された(『天保義民録』)。『膳所領郡方日記』の天保十四年十一月十七日条の「御請書」によると、中村式右衛門は一揆勢のために食事の手当てをしただけでなく、石部宿の八郎左衛門・安五郎ほか五人を「場所の模様為レ糺心得呉候杯(等)相頼候を、如何の筋と乍二心得一聞済」み、「三上村江差遣」した。また同宿の夘兵衛ほか三人が市野茂三郎の旅宿へ出向いたという風聞についても「出役中提灯持に召連候積り可二取斗一段宿役人共へ申含」めた。この「御請書」に「致二荷担一候義ハ無レ之候而茂」とあるので中村式右衛門が一揆勢に加担したのではないかと穿鑿されたのではなかろうか。いずれにしても「御請書」ではこのような行為により中村式右衛門は中追放に処せられている。しかし『天保義民録』の伝えるところによると、膳所藩では苗字を近藤と改めさせ従来通りの禄を与えたという。このように中村式右衛門の行為といい、膳所・水口両藩の「一体手弱成致し方」つまりゆるやかな警備といい、一揆勢があまりにも多人数ではあったにしても彼らもまた幕吏に自領内を自由に丈量されることを快く思わず、また市野茂三郎の所行には立場こそ違え、農民たちと同様に憤慨していたのではなかろうか。さきに記した「江州甲賀郡騒立一件ならびに不思議成白雲出候図書記帳」に「天保十四夘年二月朔日朝(カ)より同月晦日迄、毎夜暮六ツ時半より五ツ時半迄、毎夜中絶無く如レ斯白雲にて出候」と記されている。世間ではこれをもってこの世は乱世といい、あるいはまた飢饉と口々に言い出した。「三上騒動始末記」にも、天保十四年二月中旬、「半月ばかりの間、西南の方当りて白気相顕れ、申酉の間を本として一文字に竿の如く。毎夜々々暮方より夜四ツ時迄顕れ出、凶事か吉事か人々申立」と記されている。まことに「不思議なる事」とされたこの三上騒動(甲賀騒動)から二十五年後に明治維新を迎えるのである。
写129 不思議なる白雲 天保14年2月より4月にかけて毎夜、不思議な白雲がたち上ったという。この不吉な雲を乱世の始まりと感じたのか、天皇が比叡山延暦寺に対して祈祷するよう命じたと記している(『膳所領郡方日記』)。
なおここでひとつ付け加えておきたい。というのは、とにもかくにもこうして世間をゆるがした甲賀騒動が終った。そしてその発端から一揆に関わった者の裁決まで一年余りを費やした。その間、すでに記したように入牢中の費用が村方に請求された。裁決までの取り調べ中の全費用がどのくらいであったかわからないが、取り調べを受けた人数からみてもかなりの費用が請求されたことが想像される。亀光(ママ)元年の『近江国田畑御見分ニ付騒動写』(岡山大学附属図書館黒正文庫所蔵 裏表紙に「隠岐邑浅五郎書」とある)という文書の末尾に取り調べの費用ともからんで一揆に対する心境が簡単に語られている。
三郡の村々不残御取調中一ヶ年余も相懸り、諸入用多分の金高雑ヲ買無限事難渋の村方後悔至極ニ候、末々世迄も相心得べき事ニ候
もちろんこの文書の史料としての検討がなされねばならないであろう。しかしともかくこの記述からは石部宿をはじめこの一揆に関わった村々の人たちの心境を知りつくすことはできず、また彼らの生の声であったかどうかもいま確かめることはできない。