『石部町史』によれば、寛文(かんぶん)六年(一六六六)二月宿内で火事が起こり、宿中残らず焼失したとある。詳しくは知れないが、早い時期の大火であった。元禄(げんろく)五年(一六九二)六月十六日谷町から出火し、被害は焼失家屋一一六軒、壊家一一軒に上った。寛文の大火後二五年を経て町並みがようやく整った矢先であり、しかも三年前にも不詳ではあるが火災があり、後世に元禄の大火として語り継がれている点からも、石部宿にとって記録的大火であったことが察せられる。このとき膳所藩は米・大豆と復興用の材木を給付し、金三五三両余を御救拝借金として貸与し、そのうちから間口一間に金二分ずつ、計金一七六両余が罹災家屋の復興資金にあてられた(「役用年代記」『甲賀郡志』所収)。宝暦(ほうれき)五年(一七五五)三月二十一日夜上横町仁左衛門宅より出火し、西は小左衛門、鍋屋吉兵衛宅で消し止め、東は平野町宇平次、三郎兵衛宅で止め、家数三一軒、竈(かまど)数三六軒を焼失した。それ以後大火の記録はみえない。
また、記録的な地震に二回見舞われていることが知れる。文政二年(一八一九)六月十二日八ツ時(午前二時ごろ)に地震が起こり、本陣二軒をはじめ宿内の家屋は大きな被害を受け、平野町より東三町では家屋は残らず大荒れとなった。各所で地面に二~三寸(約六~九センチメートル)の亀裂が入り、深い所では一丈二、三寸(三、四メートル)もあり、水が湧き出るところもあった。このとき膳所藩から検見の役人が派遣され、極難渋の者への手当として米一~四斗ずつ(一八~七二リットル)が支給されている。また嘉永七年(安政元年・一八五四)六月十五日暁丑(うし)刻(午前二時ごろ)の大地震は、潰家八五軒をはじめ、宿の全家屋が何らかの被害を受け、膳所では余震が続き一五日間藩主が仮屋に居を移すほどに危険な状態が続いた。
写130 小島本陣土蔵棟札 小島本陣の土蔵は昭和63年に傷みがはげしく取り壊されたが、その折に嘉永7年(1854)6月の地震で大破した土蔵の屋根裏板・白壁などの大半を修築したことが記されている棟札が発見された。当時修築にあたった大工・左官ら4人はすべて石部宿内の職人であることもわかる(石部町教育委員会所蔵)。
洪水で被害の大きかったものは嘉永(かえい)元年(一八四八)六月の二度にわたる強雨によるものであろう。六月五日早朝六時ごろから強雨となり、二時間後には宿内の往来が大川のようになり、家屋は二、三尺(約〇・六~一メートル)浸水し、さらに柑子袋村宮の前で落合川が氾濫し、宿東端の東清水町で住宅七戸が流失し、その他流失同様に家財道具が押し流されたものが多数に上った。落合川筋では四ヶ所、宮川筋では一〇ヶ所、下灰山前などで堤防が決壊し、家二軒流失同様となり、山崩れ、地すべりが多く、伏樋数ヶ所が流失し、そのほか山川、井川筋の決壊大小七〇ヶ所、損壊箇所の総延長二、五〇〇間(約五キロメートル)におよび「誠ニ前代未聞之大洪水、筆紙につくしがたき」惨状となった。決壊箇所の水止めの仮工事がようやく出来上ろうとした矢先、六月十二日、八月五日大雨に見舞われ、復旧工事は初めからやり直さざるを得ない状況であった。嘉永元年の強雨による被害ばかりではなく、暴風雨による河川の氾濫はしばしばみられ、そのたびに石部宿は大きな被害を受けた。
年月 | 種別 | 被害 | 典拠 |
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元治元(1864).4. | 疱瘡 | 疱瘡流行にて日々死人多し | 『宿帳』元治元.5.1 |
近世には疫病(えやみ)(流行病)に多くの人々が悩まされた。麻疹、疱瘡、コロリ(コレラ)、流行性感冒は疫病の代表的なもので、石部宿も宿場町という性格から、諸国の疫病は人々の往還により運ばれ、伝染したことは容易に考えられる。安政五年(一八五八)六月長崎に流行した暴瀉(ぼうしゃ)は西国を経て江戸にいたり、九月上旬までに江戸で四万人も死者を出したという。コレラの流行は翌年、翌々年にも及び、京都では二千数百人の死者を数えた(富士川游『日本疾病史』)。石部宿については記事が簡単で詳細は知れないが、「コロリ」として人々を恐怖に陥れたことは間違いない。