宿の財政

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石部宿の財政を知ることのできる史料は乏しく、『石部町史』が引用している史料(『小島忠行家文書』)が、宿の財政を具体的にうかがえる唯一のものといってよいであろう。この史料は嘉永六年(一八五三)石部宿の収支勘定帳で、宿財政の実態を明らかにするのに重要であるので、表37にまとめて紹介する。なお勘定帳は金・銀・銭・米で表記されているが、理解しやすくするためにすべて銀に換算(当時金一両=銀六四匁、銭一貫文=銀九匁八分、米一石=銀一一〇匁である)し、さらに比率を示した。
支出合計銀67貫368匁5分4厘(100.0%)
内訳
貫   匁 分 厘
朱印、証文人馬賃賄1.065.0.0.(1.6%)
人足方手先ニテ日々小払並小役之者重役打増1.282.0.0.(1.9)
諸入用〆高7.317.0.0.(10.9)
御用宿打銭4.030.0.0.(6.0)
御書飛脚、小飛脚0.534.0.0.(0.8)
御金銀見送り、御泊りの節諸入用0.156.0.0.(0.2)
地馬勤馬に応じ褒美、番世話料0.108.0.0.(0.2)
宿駕籠桐油料請負料0.582.0.0.(0.9)
地馬36疋役金11.520.0.0.(17.1)
地馬手当合力大豆代年分入高2.409.0.0.(3.6)
同別手当1疋ニ付2分、1.152.0.0.(1.7)
(是ハ潰馬貸付之内、年賦ニ差入、差配致スベキ分)
宿馬請負料23.040.0.0.(34.2)
宿人足役給2.509.0.0.(3.7)
紙・蝋燭・焚炭代年分〆高1.415.0.0.(2.1)
問屋3人給銀1.440.0.0.(2.1)
年寄3人給銀0.966.0.0.(1.4)
馬差2人給銀0.820.0.0.(1.2)
人足方2人給銀0.710.0.0.(1.1)
出迎役6人給銀0.900.0.0.(1.3)
御書飛脚6人給銀1.680.0.0.(2.5)
小飛脚6人給銀1.872.0.0.(2.8)
定使4人給銀1.000.0.0.(1.5)
小飛下6人給銀0.552.0.0.(0.8)

収入合計銀52貫090匁9分0厘(100.0%)
内訳
貫   匁 分 厘
公儀より下置かれ候宿助成金3口分利息8.906.0.0.(17.1%)
公儀より問屋並飛脚給として下置かる2.692.0.0.(5.2)
領主より下置かれ高231石、免5ツ5分口米共14.295.0.0.(27.6)
馬役金取立分9.856.0.0.(18.9)
歩役銭取立分3.549.0.0.(6.8)
御馬銭取集分0.507.0.0.(1.0)
諸荷物継立請負人権右衛門より受取0.980.0.0.(1.9)
商人庭口銭刎共問屋場ニテ受取、年分請負0.686.0.0.(1.3)
諸家様臨時刎銭宿助成0.119.0.0.(0.2)
2割刎銭宿受取分8.585.0.0.(16.5)
京都順番会所より先番荷物継立二付受取0.128.0.0.(0.2)
三都会所より早荷物継立二付受取0.192.0.0.(0.4)
仁正寺飛脚二付受取0.032.0.0.(0.1)
番宿清八より受取0.048.0.0.(0.1)
宿入口ニテ取立候口銭請負人彦六・清蔵より受取0.059.0.0.(0.1)
板継立請負人重兵衛より受取0.147.0.0.(0.3)
例年正月7日参会汁銭取集残分0.048.0.0.(0.1)
日銀貸年賦取立之分0.047.0.0.(0.1)
飯盛運上諸引残分0.932.0.0.(1.8)
 
差引銀15貫277匁6分4厘不足
外二 人別配当渡銀1貫530匁4分5厘
表37 嘉永6年(1853)11月 往来方諸入用助成差引勘定帳

 支出をみると、先述した朱印状、証文を携える御用通行に徴発された無賃の人馬に宿が支払う賃銭は、幕末の政局が緊迫の度を加えるにしたがって、その占める割合が増すことは当然推測される。支出の割合が大きいものから順にみると、宿馬請負、地馬への手当を第一にあげることができる。宿周辺に三六疋の馬を確保し、役金・大豆代・手当、さらに勤めた際の褒美(ほうび)金などを合わせて二二・六パーセントを占め、宿の伝馬確保に関連する支出が全体の五六・八パーセントに上っている。次に宿の運営に関わる諸役人の給銀が全体の一四・四パーセントを占めている。人馬継立、宿泊などに関する一切の責任を負う問屋には、宿内から掛り役人を出し、それぞれに業務を分担し相応の手当が支給された。問屋場の主管である問屋三人には年間各銀四〇〇匁、問屋を補佐する年寄三人に各銀三〇〇匁と米二斗代銀(銀二二匁)、宿と助郷人馬に対して荷物の差配をし、実質的に人馬継立を掌っている馬差(指)二人には各銀三〇〇匁と米一石代銀(銀一一〇匁)を支給した。ほかに人足方二人に各三〇〇匁と米五斗代銀(銀五五匁)、出迎役六人に各銀一五〇匁、御書飛脚一人銀二八〇匁、小飛脚六人に各銀三〇〇匁と米一斗代(銀一一匁)、使い走り役である定使四人に各銀二五〇匁、小飛下(こひか)六人に各七〇匁と米二斗代銀(銀二二匁)が支給された。
 収入についてみると、膳所藩から石部宿への助成高が二三一石あるが、その高の年貢率が五五パーセント、口米共に一三〇石余が実際に支給されており、これを銀に換算すると一四貫余となり、収入全体の二七・六パーセントを占めている。次に一七パーセントを占める宿助成金三口分の利息の内容は判明しないが、これまで数回にわたる宿助成の拝借金の利息運用による間接的助成を合わせたものと考えられる。これと問屋並びに飛脚給の助成を合わせると二二・二パーセントを占める。右にみた幕府、膳所藩の各種の助成総額は銀二五貫九九三匁となり、収入全体の四九・八パーセントとなる。次に馬役金・歩役銭は軒別に徴収した人馬役金であるが、石部宿の場合どのような割合によるものか明らかではない。収入の一六・五パーセントを占める人馬賃銭の二割刎銭については、銭一、一一六貫二四文のうち、銭二四〇貫文は前年渡し不足分銭四〇貫文を含めて助郷に渡し、残り銭八七六貫文余(銀八貫五八五匁)が宿方の収入とされた。さらに先述した飯盛(めしもり)女運上銭二一二貫七九四文のうち、金一〇両は貸付けに回し、金一両と銭二〇貫文は諸手への挨拶、銭二四貫文は石部宿の町方へ配当し、残額の銭九五貫文(銀九三二匁)が宿の収入となった。そのほか少額ではあるが、荷物継立請負運上、商人庭口銭刎分などの収入があった。
 宿の収支については、助成金利息の回付不足も合わせて銀一六貫八〇〇匁余の赤字となっている。これは支出総額の二五パーセントに相当するものである。嘉永六年が先述したように格別往還が頻繁な年であったとはいえ、この種の宿財政の赤字は一九世紀初頭の化政期ころから著しくなりはじめ、その後改善されることなく、破綻へと陥る道程の一節(ふし)であった。