文政(ぶんせい)十二年(一八二九)地下(じげ)持山のうち砥石ヶ谷西北側と吹屋ヶ谷の松を売払うこと(同文政十二・十二)、翌年には出岩ヶ谷一帯の松茸そのほかの茸の採取権を文政八年から五年間銭二貫文の運上で許されたものを、さらに五年間延長を願い出た。その際運上は銭一貫文を増し、結局銭三貫文で採取権を延長しえた(同文政十三・六・十七)。また嘉永四年(一八五一)問屋藤谷九兵衛らは石部宿内に正米会所を設け、石部宿より東の甲賀谷・水口・日野を主たる範囲として正米取引をはじめ、宿の景況振興をはかりたいと願い出ている(同嘉永四・六・六)。
表38に示すように石部宿の借財は日を追うて増加し、宿のささやかな企てでは如何ともし難い状況にあった。宿のこの困窮打開の策は、宿の負担している人馬継立ての軽減以外にはなかった。宿人馬の軽減は当然周辺農村への助郷負担の増大に転嫁されるもので、容易に実現できるものではない。
年 | 金高 | 典拠 |
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文政2(1819) | 金2,000両 | 『膳所領郡方日記』嘉永元.10.9 |
文政10(1827) | 銀90貫(金約1,400両) | 同上 文政10.2.14 |
天保8(1837)頃 | 金3,000両) | 同上 嘉永元.10.9 |
嘉永元(1848)頃 | 金4,000両 | 『石部町教委文書(断簡)』 |
嘉永6(1853)頃 | 金7,000両 | 『願書要用留帳』 |
慶応3(1867)頃 | 金20,000両 | 『歎願書』小島忠行家文書 |
天保(てんぽう)六年(一八三五)助郷から馬一〇疋の断りを申し立て、それに対して石部宿はこれを代って負担することは困難であると道中奉行に訴え出ている。同時に石部宿から次のような願いを出しているので内容を紹介しよう。
当時石部宿の定馬は八〇疋(伝馬一〇〇疋のうち二〇疋は囲馬として緊急用に確保されているもの)であるが、そのうち四、五〇疋は毎日遣い払いとなるので、一年一疋金一〇両で馬を飼い立てる必要がある。残り三〇疋については、毎日の継立てもないので、かえって飼葉料が嵩むこととなる。だからといって、飼育を手控えていると継立ての多いときには雇馬をしなければならなくなり、雇賃が宿の負担となる。石部宿としては三〇疋分を未だ助郷の負担をしていない村(差村)に新規に勤めさせるよう願い出た。幕府はこの願いに対し、当時石部宿周辺には助郷負担をしていない村は少なく、宿から遠く離れた村に課しては雑費がますます加わり迷惑するとの理由で、石部宿の願いを一応退け、次のように指示を与えた。すなわち天保七年(一八三六)二月から一〇年を限って、定馬八〇疋のうち五〇疋に減じる。人足は規定通り七〇人(人足役一〇〇人のうち三〇人は囲人足)とする。減じた三〇疋のうち二〇疋は一〇年間石部宿周辺の助郷負担をしていない手明きの村と、草津、武佐両宿の助郷と操り替えの上宿付(しゅくつけ)助郷(加宿助郷)とされた二一ヶ村、二、〇〇〇石に負担させ(実際は一疋分飼葉料として金一〇両宛負担)、残り一〇疋は惣助郷の余荷(よない)勤(他村が代わりに負担し、勤めること)とした。幕府のこの指示により石部宿は実質的に馬三〇疋の休役を得たことになる(「東海道石部宿助郷一件写」『石部町教育委員会所蔵文書』)。
石部宿では天保七、八年の西日本を中心とした凶作、米価の高騰に難渋を重ね「既ニ一宿取潰れるべき」状況に陥り、「領主表より格別の御手当下され候得共、中々以て引き足り申さず、余儀なく家財質入、又は役人共差略を以て、所々にて多分の銀子代借仕り、ようやく御用御継立相勤」めるありさまで、「大借の上又候右借財一倍相嵩」み、利下げなどを頼んでも、所詮「利銀迄も追借」し、借財高は金三、〇〇〇両にもおよんだ(『膳所領郡方日記』嘉永元・十・九)。
新たに馬三〇疋の負担を転嫁された助郷の村々は天保十二年(一八四一)閏正月石部宿佐渡屋に会合をもち、出人足勤の際歩立をやめ正人足を出すこと、出馬は宿馬遣い払いの上助郷に割当てることを取りきめ、改めて石部宿問屋にその履行を迫った(『東寺地区共有文書』)。
石部宿では一〇年の年期の明ける前年の弘化(こうか)二年(一八四五)に期限延長を願い出たが却下され、馬八〇疋、人足七〇人の負担に戻ることになった。あいつぐ災害と宿の負担過重にあえぐ宿として、ぎりぎりの緊縮策をとることを余儀なくされ、石部宿一二町連判の上「倹約取極伺書」を結び、宿の住民の日常生活について細かく規制を加えた。
郡名 | 村名 | 村高 | 諸引 | 残高 | 助郷高 | |
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蒲生郡 | 池田村 | 1,032 | 211 | 821 | 200 | 草津宿助郷免除之上石部宿助郷被仰付 |