宿勤め半減願い

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嘉永元年以来わずか七年間に「銘々聞き及ばざる程の天災都合六度に及ぶ」災害、嘉永六年ペリーの来航以来御用通行をはじめとする街道の通行量の増加、宿方の借財が金七、〇〇〇両にもおよぶという状況下で、安政元年閏七月石部宿問屋小島金左衛門、年寄次兵衛の二人は江戸へと出発し、宿の窮状を訴え宿立人馬のうち人足五〇人、馬五〇疋を三〇年間減勤するよう道中奉行に願い出た。この思い切った訴えについては当初ほとんど相手にされなかった。以後連年出府したが、安政四年九月小島金左衛門は膳所藩江戸屋敷の留守居、御用人らを動かし、道中奉行へ働きかけるべく出府した。この折の役人との交渉の始終は小島金左衛門の「御用留(ごようどめ)日記」に詳しく記録されている。留守居石川陣左衛門とのやりとり、勘定役人と思われる駒込に住む富印なる人物との折衝は大変興味深いものがある。小島らの宿舎の主人下野屋伊助の指図もあり、特に富印へ酒食をもてなし、金子を手渡すなどして「世話敷仕掛ケ(せわしくしかけ)」勘定所要路への働きかけに期待した。しかし富印の返答は要領を得ず、当時アメリカ駐日総領事ハリスの江戸城登城をめぐり幕府要路諸役人の御用繁多を理由に取次が難しいとし、果ては「たしかに成就の有無は一同の天運に候条、此旨深く心得べく様」諫(いさ)める始末であった。しかし国元からは願いの首尾について問い合わせが来て小島らの気持をあせらせた。また在府中の十月二十三日には小笠原順三郎知行所常陸国大徳村の農民二〇〇人余が早暁四時ごろ江戸城清水門内の小笠原氏の屋敷に門訴する事件に出合い、この農民ら七〇人余が小島の宿泊している小伝馬町三丁目下野屋伊助宅に宿泊したことは小島らに大きな衝撃を与えた。留守居石川陣左衛門は小島らの執拗な働きかけに辟易し、開き直りの姿勢をみせる。
 ケ様の大望五十日や百日で返事聞いて帰るなどと申様な了管(了簡)では、とても成就心もとなし、たとえ三年、五年かけても成就せねば帰らぬと申心得でなくては相成らず、勿論国元でどう思う、こう思うなど小慮にては願わぬがましと申すものじゃ、その代り成就さえ致したならば、大明神様ではないか、何分にもじっくり致し居り候はでは相成りがたし、又国元にてもかれこれ申す者これあらば、其人を五人なりとも、十人なりともつれて来るがよい

 このようなやりとりからして、小島らはこのたびも「不叶(かなわず)じゃないかと」との感触を得るが、「たとえ兜首(とうしゅ)を見ざれば、葉武者の首なりとも取りて渡」したいと小島らの気持はあせるけれど、時間を経るにしたがって「これまで宿方に付き骨折候義は少しも当時間に合い申さず、道中掛り勘定方の手ふき紙になり候事ばかり」と、これまでの苦労の空しさをいたずらに慨嘆するばかりであった。結局富印から、来春になれば「どう成りとも色をつけ遣すべし」という挨拶を得て、今回は帰国せざるを得なかった。
表40 石部宿から道中奉行への出訴
年月日道中奉行への出訴幕府の対応
弘化2(1845).12問屋九兵衛、天保7~弘化2宿立馬30疋休役継続願年季中につき却下
弘化3(1846).2問屋九兵衛、継続願一10ヶ年間の宿方諸入用帳・免状持参し、再度願出
弘化3(1846).5問屋文次郎出府願下げ
嘉永元(1848).10問屋九兵衛、大洪水のため、20ヶ年間宿立馬30疋休役願
嘉永2(1849).1宿柄検分、諸帳面取調、差村検分
     .8石部宿だけ沙汰洩れ
嘉永3(1850).11膳所藩取次にて願書差出す
嘉永4(1851).2再願
嘉永5(1852).12問屋九兵衛、前年6月大雨で、倒壊家屋多く、嘆願調査中につき、暫く待つよう
嘉永6(1853).12膳所藩取次にて願書差出す
人足50人、馬50疋即時減勤願
安政元(1854).閏7問屋金左衛門・年寄次兵衛、宿立人馬50人・50疋30ヶ年減勤願
安政4(1857).9問屋金左衛門、再願異国船渡来など格別の時節柄につき、差控えるよう江戸詰役人より却下
安政6(1859)検分のため廻宿
万延元(1860)検分のため廻宿
文久元(1861).4.29~6.12仁兵衛同道、内輪取繕として出府
文久2(1862).2.3馬30疋20ヶ年減勤認める
     2.4人足減勤も追願
元治元(1864).11人足減勤認めない代りに、18ヶ年・金35両宛助成
慶応2(1866).3減勤代りの助郷増高2,000石願
     8代助郷、増助郷願
慶応3(1867).12万両拝借願