安政六年十二月問屋小島金左衛門は石部宿の長老方服部仁兵衛とともに膳所藩の内諾を得て出府した。「このたびはいよいよ叶うか、叶わぬか決着つきとめ申したく」、そのためには、事態のなり行きにより費用も嵩むことが予想され、費用について宿方から疑念を抱かれても宜(よろ)しくないとの理由で服部仁兵衛を同道した。二人が江戸到着以前に、膳所藩の副願を添えた願書はすでに勘定所留役下掛り役人田辺氏に通じてあった。内容は「御留守居より手強き願書相認(したた)め、既に宿方一同罷り越し歎願したく申し立て人気穏やかならず、領主においても差し押えがたき候に付、両街道御出役の方へ早飛を以て仰せ遣わされ下されたく、付いては、先規の通り三〇疋御免下され候ては最早仕法見通しあいつきかね候間、五〇人、五〇疋下され候様」との副願であった。受け取った田辺氏は立腹し「元より願いにより御沙汰及ぶべき筋にこれなく、たとえ三〇疋たりとも此方承知致さず候はば出来がたく候に、その上の規模をつけくれ候などと申のみならず、人気立などと強情に相願われ、左様のおどし申立候とて急に沙汰におよび候ては、御奉行所御趣意にかかわり候間、人気立てば人気立つがよし、其ままに打ち捨ておくべきよう」と石部宿の願い出についての道中方の受け止め方の一面がよく表現されている。このころ中山道醒ヶ井宿の助郷惑乱があり、ついで石部宿のこの強硬な願い出があり、直接に折衝にあたる下役人にその処理をめぐり困惑があったことも小島の記録にうかがえる。田辺氏の自宅における内々の話においても「先年外宿郷へは沙汰に及び、石部ばかり御沙汰もれに」なることについては、奉行所として特に他意はなく、石部宿が膳所藩の取り次ぎでこれまでしばしば調査を願い出ているが「右様相成り候ては、五街道の宿、助郷とも難渋申立てぬ所は一ヶ宿もこれなき事故(ゆえ)、石部の処、右様取りはかり候ては、自余の響きに相成り際限もこれなく、御奉行所の御趣意に相触れ候故、此義はあくまでも取りはかりがたし」と述べている。この種の折衝が延々と続くが一向進展はなく、今回についても「いずれ明年中には沙汰に及ぶべき積り」といい渡されたが、小島は「明年と申す内にても、正月も十二月も明年の内の事故、何分にも御とりなしを以て、年明け候はば一刻も早く御沙汰」下さるようねばり、ようやく来春正月七日から十日までの間に願書を差し出せば、十九日の御用日に沙汰を申し渡すとの確約を得た。その願書についても「格別手強き願書は却(かえつ)て奉行に不審相立」、さらに詮議の順番について二番手の最初を予定しているが、願書の表現によっては「又下積みに相成るべき間、とかく願書はやわらかに御認め然るべきよう」との細かな注意を田辺氏は小島らに与えた。今回は「御老中へ駕訴(かごそ)したく」とまで決意したが、右の具体的に日限を指定した返事を得て、小島らは江戸で年越しをすることになった。
万延(まんえん)元年(一八六〇)正月十九日虎ノ門の御用屋敷に大目付(道中奉行兼任)遠山隼人正、勘定評定所留役山本鎌之助らが出座し、小島に次のように申し渡した。数年来歎願し続けているが「願いにより御取り用い相成るべき義にこれなく、御調べ中の義に付、追て御憐愍(れんびん)の御沙汰有ろうやもしれない、願書下げ切り相願候よう仰せ聞せられ、(小島は)御理解の趣は承伏仕り候へ共、何分連々困窮の次第申上げ候処、(道中奉行は)其義は其方申さずとても、たしかに承知致し居る」として一応願書の趣旨は理解されたが、願書そのものは願下げとなった。
今回小島らの江戸滞在は年末から年頭にかけ四〇日という長期にわたるものとなったが、その間八方手をつくして、直接道中奉行に訴え出ることができたことは結果的に願い下げとはなったが、一応の成果といえよう。今回の費用金四九両はすべて膳所藩からの借用金で賄(まか)なわれた。宿泊だけでなく、何かと紹介の労をとった下野屋伊助へ金一〇両、道中奉行山口丹波守へ金五〇〇疋、道中奉行御用人三人へ金一両二分、同下役二人へ金五両、同湯呑所同心へ金五〇〇疋など、道中奉行へ訴えるについて周辺の諸役人への挨拶料が総費用の一八パーセントを占めた。これはこのたびの出府が如何にしても減勤願いの見通しを得たいとし、そのためには、多少度が過ぎた行為も止むを得ないとする切迫した気持ちの表われといえよう。