減勤ようやく実現

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二人が石部宿に帰って一〇ヶ月を経た万延元年十一月、江戸から普請役大木猪平太、論所地(ろんしょち)改役中川亮平らが宿柄検分を行い、追て信楽(しがらき)代官から沙汰するであろうと告げた。翌文久元年(一八六一)四月小島・服部両人は「内輪取繕(うちわとりつくろい)として」出府し、六月十二日帰宿した。この往来は、前年の検分がこれまでの願書の実現に結びつくものであるのか、内々に要路の人々の意向を打診しようとするものであった。文久二年二月信楽代官帰陣に際し、小島らは四日市宿まで出迎え、その沙汰に期待した。一昨年石部とともに検分を受けた水口宿には沙汰があったが、このたびも石部宿は沙汰もれとなった。石部宿減勤の願が「成就これなきときは、亡宿の外これなく、左候(さそうろう)時は詰り御上様え御苦労方相掛り恐入り奉る」(『石部町教育委員会所蔵文書』)事態になり兼ねないとして、膳所藩に幕府への働きかけを懇請した。
 文久二年三月九日信楽代官所から石部宿問屋らが呼び出され、次のように達せられた。宿継立馬の内、三〇疋は宿付助郷三、〇〇〇石に負担を分け、五疋は惣助郷余荷勤とすること、但し宿立四五疋は遣払い、四六から五〇疋までの内を定助郷余荷勤とし、右の分を文久二年四月から二〇年の休役とする、というものであった。つまりこれまでの石部宿勤めの人足七〇人は変更せず、馬八〇疋のうち三五疋の減勤が石部宿に認められ、そのうち三〇疋は蒲生郡南津田村をはじめとする三二ヶ村、勤高三、〇〇〇石を宿付助郷として代って負担させた。もっとも実際には馬一疋につき金一二両二分の割合で宿方が引請け継立てを行い、その費用を宿付助郷が負担することになる。
表41 文久2年4月より20年宿立馬の内30疋負担村
郡名村名村高諸引残高助郷高備考
蒲生郡南津田村82993736162
甲賀郡牧村64497546110
野洲郡新町村98620966193
蒲生郡今堀村504304※
62 
13828※彦根村御領分除之
甲賀郡江田村54533720840
蒲生郡船木村1,2061181,087210
東村5347526126
中村3981338477
八木村161715435
寺内村375736866
多賀村3272430265
市井村123212128
香庄村4105135870
浅小井村2,1332291,904266
栗太郡大鳥井村2675221430
野洲郡上永原村5272949790
辻町村3132229173
蒲生郡土田村1,13215※1,116223※含除地
竹村62722440280
甲賀郡黄ノ瀬村51024※485120※含除地
桃原下村3316127040
勅旨村58954※535107※含除地
蒲生郡北庄村68489594125
東中小路村224322140
西中小路村243323943
田中江村228322450
田中江 
十林寺村
442543696
小船木村286628050
東畑中村3539034262
西畑中村258325445
西鍛冶屋村165416128
古川村※1,232951,136222※益田村分とも


写131 出府道中日記 文久2年(1862)3月9日の宿継立馬に関する達しが下ったことに対しての返礼のため、小島金左衛門・服部仁兵衛の両人は出府を命じられた。写真はその道中の日記で、4月8日石部を出発し、5月24日に帰宿している(『石部町教育委員会所蔵文書』)。」

 一〇年間認められた負担軽減期間が切れようとした弘化二年以来、宿方が幕府、藩に対して執拗に訴え続けた減勤願いがようやくここに実現をみた。しかし人足の減勤については除かれたため、続いて働きかけることになるが、文久(ぶんきゅう)三年(一八六三)将軍上洛とそれにともなう諸大名・諸役人の往還が繁多となるときを経て、元治(げんじ)元年(一八六四)人足減勤の代りの手当として一八年間毎年金三五両を幕府助成として給付することとなった。さらに宿付助郷の馬三〇疋負担について当初一疋金一二両二分で宿方が引請け継立てることにしていたが、激しい諸物価騰貴の折、宿方は宿付助郷の村々に対し一疋金三〇両に値上げを要求したが、宿組合取締役であった守山宿大道栄蔵が斡旋の労をとり、慶応(けいおう)元年(一八六五)四月、馬一疋金二五両を宿付助郷で負担することとなった(『石部町史』)。その際「丸三ヶ年限中臨時御通行等にて宿勤相嵩候共、請切金の外増金等申出ず、村々にては豊凶にかかわらず、たとえ臨時の筋これ有り候とも、約定相極め候通、減し方決して申し出られず」(同前書)としたにもかかわらず、翌慶応二年八月には馬一疋の飼育料が年間五〇両を要するとして、差村のうちから二、〇〇〇石を加えるよう願い出ている。この年八月七日には「強風雨にて田畑立毛残らず吹き倒れ、皆無の場所少なからず、相残り候分は三歩作にも至り兼ね、右故離散の者多く、宿入用取立方さらに出来難」く、宿の借財は金二万両余に上り、「もはや金銀融通の手段もつき果て、即今御用相勤めるべき様」もない破局の状態に陥った。