文久二年三月九日信楽代官所から石部宿問屋らが呼び出され、次のように達せられた。宿継立馬の内、三〇疋は宿付助郷三、〇〇〇石に負担を分け、五疋は惣助郷余荷勤とすること、但し宿立四五疋は遣払い、四六から五〇疋までの内を定助郷余荷勤とし、右の分を文久二年四月から二〇年の休役とする、というものであった。つまりこれまでの石部宿勤めの人足七〇人は変更せず、馬八〇疋のうち三五疋の減勤が石部宿に認められ、そのうち三〇疋は蒲生郡南津田村をはじめとする三二ヶ村、勤高三、〇〇〇石を宿付助郷として代って負担させた。もっとも実際には馬一疋につき金一二両二分の割合で宿方が引請け継立てを行い、その費用を宿付助郷が負担することになる。
郡名 | 村名 | 村高 | 諸引 | 残高 | 助郷高 | 備考 |
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〃 | 古川村※ | 1,232 | 95 | 1,136 | 222 | ※益田村分とも |
写131 出府道中日記 文久2年(1862)3月9日の宿継立馬に関する達しが下ったことに対しての返礼のため、小島金左衛門・服部仁兵衛の両人は出府を命じられた。写真はその道中の日記で、4月8日石部を出発し、5月24日に帰宿している(『石部町教育委員会所蔵文書』)。」
一〇年間認められた負担軽減期間が切れようとした弘化二年以来、宿方が幕府、藩に対して執拗に訴え続けた減勤願いがようやくここに実現をみた。しかし人足の減勤については除かれたため、続いて働きかけることになるが、文久(ぶんきゅう)三年(一八六三)将軍上洛とそれにともなう諸大名・諸役人の往還が繁多となるときを経て、元治(げんじ)元年(一八六四)人足減勤の代りの手当として一八年間毎年金三五両を幕府助成として給付することとなった。さらに宿付助郷の馬三〇疋負担について当初一疋金一二両二分で宿方が引請け継立てることにしていたが、激しい諸物価騰貴の折、宿方は宿付助郷の村々に対し一疋金三〇両に値上げを要求したが、宿組合取締役であった守山宿大道栄蔵が斡旋の労をとり、慶応(けいおう)元年(一八六五)四月、馬一疋金二五両を宿付助郷で負担することとなった(『石部町史』)。その際「丸三ヶ年限中臨時御通行等にて宿勤相嵩候共、請切金の外増金等申出ず、村々にては豊凶にかかわらず、たとえ臨時の筋これ有り候とも、約定相極め候通、減し方決して申し出られず」(同前書)としたにもかかわらず、翌慶応二年八月には馬一疋の飼育料が年間五〇両を要するとして、差村のうちから二、〇〇〇石を加えるよう願い出ている。この年八月七日には「強風雨にて田畑立毛残らず吹き倒れ、皆無の場所少なからず、相残り候分は三歩作にも至り兼ね、右故離散の者多く、宿入用取立方さらに出来難」く、宿の借財は金二万両余に上り、「もはや金銀融通の手段もつき果て、即今御用相勤めるべき様」もない破局の状態に陥った。