石灰は近世において白壁などの建築用、止血剤などの医薬用、紺屋細工用あるいは防虫剤さらに肥料として使用された。近江国では、どれくらい石灰を田地に使用していたのかその普及の程度はわからないが、近世後期では土壌の性質の改良に高価な干鰯(ほしか)にかわって使用する地域がふえていった。
石部宿での石灰製造は、寛政(かんせい)五年(一七九三)、内貴(ないき)勘治の稼業に始まり、この地を下(しも)灰山といい、その後の文化二年(一八〇五)に井上敬祐が製造に着手した地を上(かみ)灰山と称した。
石灰は近世全国各地で製造された。その石灰焼法の一例として本草家あるいは物産家として知られる佐藤成裕は『中陵漫録』に
まず竈をつくる。竈の入口は五、六尺ばかり、内の広さは九尺位、末は七尺位、深さ八、九尺、その内に石を五、六寸に打ち砕いて入れる。これを下から焼き、よく焼けたらば水を注ぐ、すると石がみな石灰となる。
と記している。石部の石灰製法はこれと基本的には同じと思われるが、『滋賀県管下近江国六郡物産図説』から石部での石灰の製法とその費用および生産量をみることにしよう。
まず岩盤に鉄矢を打ち込む。取石の大小また穴の長短に応じて数枚の鉄矢を用いる。この鉄矢を玄翁(げんのう)で打ち岩石に筋を入れ、鉄テコで離して玄翁で打つと自然と石灰岩が砕ける。砕けた石灰岩を鉄槌にて小割にする(写133―右)。次に小割りにした石を竃の底に敷いた炭俵数十枚と炭数十俵の上に入れる。その上に炭を入れ、またその上に石を入れ、こうして石と炭を交互に三、四度入れ、朝、昼、夕と三度ずつ日々に焚込む(写133―中)、こうして焚込んだ石は三日目には焼揚り灰となる。これが荒石灰(生石灰)である。荒石灰に水をかけると吹石灰(消石灰)となる。吹石灰を製造する場合、カス石を除き、炭の量を増して火を十分にして焚き込んで荒石灰にしてから一夜を経て水をかける(写133―左)。荒石灰では焼手が一人ですむが吹石灰では二人を必要とする。荒石灰では一日一夫工程で一五俵から二〇俵、その賃銭は銭三〇〇文から銭一貫二〇〇文、吹石灰では一日一夫工程で六〇俵から八〇俵、賃銭は銭二四〇文から銭一貫文であり、年次を経るにつれ一日あたりの生産量は増加していった。
写133 石灰製造工程 石取并小割之図(右)、竃場製灰之図(中)、吹シ灰之図(左)(滋賀県立図書館所蔵『滋賀県管下近江国六郡物産図説』より)
年間生産量(表43)は、創業年の寛政五年では一竃五、〇〇〇俵であったものが享和(きょうわ)三年(一八〇三)では三竈、一四、三〇〇俵、文化二年では、上灰山分も加わって六竈、二一、〇〇〇俵となり、以後漸次竈数を増し、明治元年(一八六八)では一〇竈、一一万俵に達している。石灰製造に使用される炭の量は、石灰五、〇〇〇俵に対して二、三〇〇俵、石灰二万一、〇〇〇俵に対して一万俵のように石灰生産量の約半分である。また荒石灰・吹石灰・炭のいずれも寛政五年より明治元年まで一俵につき銀一匁から銀一匁六分の間で値動きがみられる。荒石灰と吹石灰がどのぐらいずつ生産されていたのか、あるいは収支勘定もくわしくは知ることができない。
竈数 | 焼出俵数 | 石灰1俵当り | 年間薪炭数 | 灰1俵単位 | 運上銀 | 備考 | |
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明治1年(1868) | 10 | 110,000 | 永50文 | 49,000 | 1.35 | 永27,812.5文 |