灰山の借銀と運上銀

470 ~ 471ページ
内貴勘治・井上敬祐とも村方から銀八三貫目ずつを借銀しての創業であった。しかし経営は必ずしも順調ではなかった。文化十四年(一八一七)、内貴勘治は字柿ヶ沢の石灰焼株と建物・諸道具を、また敬祐は吹屋ヶ谷の石灰株と建物、諸道具を担保に下笠(しもがさ)村(草津市)横井弥惣右衛門・石部宿福嶋新次郎・北中小路村田中半左衛門から銀一〇貫目ずつ借銀した。それにもかかわらず経営は好転せず、両灰山とも、文政(ぶんせい)三年(一八二〇)、運上銀を三年間半上納にできるよう、さらに同六年(一八二三)には半上納の三年間延長をそれぞれ膳所藩に対し願い出て許された。藩への運上銀は寛政五年から五年間は年に銀一〇〇匁、同十年には銀二七三匁、享和三年には銀九八六匁と竈数が一基増すごとに等比級数的に増加した(表43)。文化二年から両灰山分の運上銀が銀一貫四八六匁となり、文政元年(一八一八)から天保初年まで銀七四三匁と半減されている。『井上石灰沿革誌』(『小島忠行家文書』)によると、近世のいつの時期か特定できないが「上灰山は藩へ年貢として米一〇苞・銀五〇〇匁・石灰一〇苞を上納、また村方へは採石区域方四町ノ年貢トシテ金を七両および松・杉・檜ノ生立料金三両ヲ納付セリ」とある。