仕法年限は三五年間とし、勘治側が一切灰山経営には関与しない旨を約し、また利益の配分にあずかっていた塩屋七兵衛の手離金、勘治側の暮しむき助成、および灰山からの配分を示した仕法を決めて以後植村仁左衛門、福崎新次郎が灰山再建にあたった。
一、灰山の手離金として銀一一貫目を塩屋七兵衛に渡し、今後灰山にはかかわらない。
一、内貴勘治・井上敬祐の渡世のため酒造株と諸道具・家屋敷を渡す。さらに毎年敬祐より預った年賦銀二五〇匁のうち銀一〇〇匁を向後一〇年間渡す。
一、勘治後家の生計のため本家東の方にある家・土蔵一ヶ所と田畑を渡す。ほかに今後一〇年間毎年銀一〇〇匁を渡す。
一、当年(天保十二年)より五ヶ年を過ぎ、午年(弘化三年)より五年間銀五〇〇匁ずつ、一〇ヶ年を過ぎ亥年(嘉永四年)より五ヶ年間銀一貫目を内貴勘治へ渡す。
一、二五年にして仕法が整った上、焼方山方の諸入用・運上銀・地下運上銀を差し引き、また貸山にすれば貸料のうち運上銀・地下運上銀を差し引いた正徳銀(純利益金)の一分五厘を年々勘治に渡す。
この福嶋新次郎・植村仁左衛門への仕法人交替に際しては、いったん灰山を膳所藩へ返上し、あらためて藩が下げ渡すかたちがとられた。