下灰山の経営権委譲

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両灰山とも経営は苦しく、「近年、米穀下値につき、不景気の上灰値段高値にて両様相嵩利益少く」(『膳所領郡方日記』)と苦境を訴えているが、文化・文政期は豊作が続き米価の安値安定期であった。このような状況の中で下灰山は古借の銀八三貫、新借の銀一〇貫目の借銀返済のめどもたたず、また下灰山創業以来経営にたずさわってきた塩屋七兵衛にも毎年銀一〇貫目の配分をしなければならなかった。内貴勘治の没後親類の治右衛門が下灰山を預かったが経営はままならず、栗太郡出庭(でば)村宅屋(やけや)の関伝右衛門に経営をゆだねた。天保(てんぽう)八年(一八三七)、内貴勘治の子勘蔵は当年八月で経営権移譲の期限が切れるとして経営権の差し戻しを願い出たが許されなかった。同十二年(一八四一)、関伝右衛門は病気がちであり、灰山の借財返済の見通しがたたないとして下灰山の経営から手を引き、代わって植村仁左衛門と福嶋新次郎が仕法人となった。
 仕法年限は三五年間とし、勘治側が一切灰山経営には関与しない旨を約し、また利益の配分にあずかっていた塩屋七兵衛の手離金、勘治側の暮しむき助成、および灰山からの配分を示した仕法を決めて以後植村仁左衛門、福崎新次郎が灰山再建にあたった。
一、灰山の手離金として銀一一貫目を塩屋七兵衛に渡し、今後灰山にはかかわらない。

一、内貴勘治・井上敬祐の渡世のため酒造株と諸道具・家屋敷を渡す。さらに毎年敬祐より預った年賦銀二五〇匁のうち銀一〇〇匁を向後一〇年間渡す。

一、勘治後家の生計のため本家東の方にある家・土蔵一ヶ所と田畑を渡す。ほかに今後一〇年間毎年銀一〇〇匁を渡す。

一、当年(天保十二年)より五ヶ年を過ぎ、午年(弘化三年)より五年間銀五〇〇匁ずつ、一〇ヶ年を過ぎ亥年(嘉永四年)より五ヶ年間銀一貫目を内貴勘治へ渡す。

一、二五年にして仕法が整った上、焼方山方の諸入用・運上銀・地下運上銀を差し引き、また貸山にすれば貸料のうち運上銀・地下運上銀を差し引いた正徳銀(純利益金)の一分五厘を年々勘治に渡す。

 この福嶋新次郎・植村仁左衛門への仕法人交替に際しては、いったん灰山を膳所藩へ返上し、あらためて藩が下げ渡すかたちがとられた。