文久(ぶんきゅう)二年(一八六二)の「差入申一札之事」に、宿方では先年新灰山の石灰焼を始めたとある。この新灰山は表43の文政九年の欄の「是ヨリ新山分共」とある新山のことではないかと思われるが、場所は明らかでない。おそらく宿方としては灰山経営の不振を打開しようとして、新灰山の開発を行ったのであろう。しかし井上敬祐は、新灰山の操業は「私請負上灰山忽迷惑」として訴え、その結果、「御運上銀同様」にはじめは焼留料銀一貫八〇〇目、その後銀五〇〇匁を増額されて銀二貫三〇〇目を宿方へ納めていた。しかし敬祐家も家計は苦しく万延(まんえん)元年(一八六〇)と文久元年(一八六一)の両年分の焼留料が払えず、さらに四五ヶ年の間焼留料の延納と、仕法の年延二四ヶ年を宿方へ願い出た。宿方では仕法の年延は承諾したが、焼留料の年延は筋違いであるとして退け、井上敬祐はすでに合意に達していた運上金七両と松木運上金三両とともに従来通り焼留料を納めることとなった。
写134 「両灰山地所一円之図」 (『滋賀県管下近江国六郡物産図説』)