このように両灰山の経営は創業以来不振続きであった。下灰山の場合、塩屋七兵衛に渡す銀一〇貫目の配分は当初の生産量からして無理があったと思われる。植村仁左衛門・福嶋新次郎が仕法人となってから文久元年ごろでは「追々減借」(文久元年六月「乍恐奉願口上書」)になっていたようであるが、再建は容易ではなかった。上灰山も新・古の借財が残ったままであった。
灰山再建にあたった仕法人は経営の打開策として天保七年(一八三六)ごろ石灰の直売りを図ったが、創業者の反対にあって実現しなかった。また石灰生産量は次第に増加したにもかかわらず、灰山の経営を軌道にのせることは容易でなかったようである。