石部焼は、文政年中石部宿の福島治郎兵衛・植村仁左衛門・藤谷治右衛門らが十禅寺の高地に数基の窯と作業場を建て、陶器の製造に着手したのに始まる。陶器に光沢を出す釉薬(ゆうやく)は京都から仕入れたが、原料となる陶土はこの地から産出するものを用いた。『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』に「石部土、石部山よりこれを出す」とある。職人は京都清水から陶工清二を招いた。製品は茶碗・徳利・鉢など日常品、さらに水指・筆架・猪口・床置と種類もふえ、模様染付も精巧なものになっていった。これらの陶器には「湖東石南山」や、陶工の名である「清二」の銘のあるものもあり、また中には「天保丙申(七年)十二月茶碗山」の銘のあるものもある。
写135 石部焼 京都清水より陶工を招いて作られた石部焼は染付模様が精巧である。皿の裏面には「天保巳暦於湖東石部郷製」といった銘をもつものもある(竹内善一郎氏所蔵)。
天保五年(一八三四)には、石部焼仕法方福島次郎兵衛・藤谷次右衛門・服部才之助らが膳所藩から金四〇両を年利四朱で手当として拝借し、窯ごとに窯元が焼物で返納するとの証文を差し出している。しかし、経営は不振がちであったようで、「其後何んとなく中絶に相成」り、嘉永四年三月石部宿北村又三郎が再興し、将来は国益にも資するようにと願い出ている(『膳所領郡方日記』)。