薬と効能

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石部宿でも起源は明らかでないが、真宗西本願寺末の明清(みょうせい)寺では薬を販売していた。江戸時代には今日の広告ビラのような報帖とか報条というものが現われる。これを江戸では引札、京・大坂ではちらしといった(『守貞漫稿』)。明清寺にはちらしが十数枚残されており、このちらしでみる限り胃腸の薬・痳病の薬・打身たがいの薬・産前産後の薬・狂気の薬・皮癬の薬など一三種類が明清寺製として売られていたことがわかる。文化・文政期以後、ちらしは綿絵や洒落言葉を交えて人々を引きつけるちらし文(戯文)がみられるようになった。明清寺のちらしにはこのような華やかさや粋なものはないが、まず簡単なちらし文から紹介しよう(写137)。

写137 売薬ちらし
(石部町教育委員会所蔵、明清寺より寄贈の売薬ちらし用版木より印刷)

 ①水にてとき、ほしの上へたびたびさすべし。(目ほしはけ薬)
 ②乳に志たし、しぼりたびたびさすべし。(つき目の薬)
 ③めしつぶにて手か足のつちふまずにはるべし。(小児口中の薬)
 ④いたむ歯のうちそとにつけてよし。(歯痛の薬)
 ⑤はら一切の薬、別して暑気のじぶん猶よし。(神秘丸)

 これらのちらしは短冊のようなもので、ほかに正方形で禁物を書いてあるちらしもある。また、包紙にも用法や禁物が記してあったと思われる。こうした短かいちらし文では薬の用法を述べているが、なかには胃病の薬に「のんで治らぬということなし」あるいは皮癬(ひぜん)の薬では「いかなるおもきひぜんにても七日の内に治する事請合」というように治癒や治癒の日限まで請合った文言もある。皮癬というのはひぜんダニによる伝染性の皮膚病で、皮癬の薬は、文化十三年(一八一六)九月、産前産後の安身長寿散とともに藩へ販売許可願いを出した薬である。明清寺の薬剤では、丸薬(神秘丸)・散薬(狂気の薬、安身長寿散)・煎薬(狂気の薬)などが使用されている。ひぜんの薬では胡麻油とすり合わせて塗るのと、薬物を酒に浸してすりつけるのとがある。薬物を酒に浸して用いるひぜんの薬に扱い上の注意として特に「薬あつかいし手にて目・鼻・口にかならずさわるべからず」と記している。それだけに「何程重きひぜんにても七日の間に根切請合」と保証している。このちらしでは京都寺町の丹波屋治兵衛・江州大津市場平野屋弥兵衛・彦根土橋町米屋藤平・同職人町みのや新兵衛が取次店となっている。石部近辺だけでなく、彦根・大津さらに京都にまでかなり広い範囲に販路を広げていたことをうかがわせる。