家康の往還

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近世になると江戸日本橋から京都三条までを結んだ東海道は、将軍家の往来をはじめ、諸大名の参勤交代、そのほか民衆の伊勢参りなどでにぎわい、街道の宿駅は宿泊地や休憩の地として栄えた。
 徳川家康もたびたびこの近江の地を往来した。野洲の永原の御殿や、水口を伝馬地としての上洛や、江戸への帰府の節はよく石部を利用したといわれている。ことに家康が水口において難に会うところを免がれたという歴史的な挿話があるが、慶長のころからすでに石部・水口の地は家康とのゆかりが深かった。
 大坂冬の陣のあと家康は膳所城へ立寄り、舟で草津の矢橋にあがり、石部を経て水口・亀山そして三河の方へと通った。また夏の陣の時にはその逆コースによって家康は元和(げんな)元年(一六一五)に、再び石部を通り京都二条城へと急いだ。夏の陣での戦いに勝利を得た家康は八月初旬、この石部を通り、水口へと進んだのである。
 その後、三代将軍徳川家光(いえみつ)も寛永(かんえい)三年(一六二六)及び十一年上洛を終えての帰路、石部―水口―亀山城へと行列を進めた。寛永三年の上洛の時の行列の人数は二、〇〇〇人をはるかに越えたという。権勢を誇示したこの大勢の供奉を連れた道中のありさまはものものしいものであった。