御茶壺道中

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御茶壺道中とは、三代将軍家光(いえみつ)が寛永九年(一六三二)に宇治の茶師に新茶(抹茶として用いるところの碾茶(ひきちゃ))の献上を命じたのが始まりとされ、以後毎年江戸~宇治間を往路(上り)は東海道、復路(下り)は中山道を通って新茶を詰めた茶壺の一行が往復した。また、将軍家以外にも徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)や皇族などへの献上も行われた。
 石部宿を通過する御茶壺の一行をみると、徳川御三家の内の尾張・水戸両家への一行が万治(まんじ)三年(一六六〇)を初見として貞享(じょうきょう)二年(一六八五)まで一〇回ほど小島本陣に宿泊している(『小島忠行家文書』「宿帳」)。
 将軍家へ献上するための御茶壺一行については、元禄七年(一六九四)を初見として、慶応(けいおう)二年(一八六六)まで毎年五月初旬ごろ水口宿で宿泊、石部宿・草津宿で小休、大津宿で宿泊という行程がとられていたようである(『石部町史』、『小島忠行家文書』「宿帳」、『膳所領郡方日記』)。
 御茶壺の一行が宿場に小休(休憩)・宿泊するにあたって、通行の数日前に宿場に先触(さきぶ)れが出されていた。
 一、御茶壺御登り近々御通行ニ付、左之通
  一、石部宿直御通江地方役人壱人
    但し、御下り之節は草津宿へ壱人
  一、御領分中掃除、石部・草津斗(ばかり)手桶
    但し、御下り之節は草津迄手桶
  一、川支配  郷代官三人

と郡方(こおりがた)役所より石部宿へ役人が一人出役してくること、草津宿とともに領内の通行路の掃除、さらに直接通路とならない復路(中山道)通行の際にも、石部宿より草津宿へ手桶持参の雑役を課せられていたこと、川支配については郷代官三人があたることなどが指示されている(『膳所領郡方日記』文化十一年四月二十一日条)。
 このような先触れがあったにもかかわらず、雨による増水などで川支えとなり、日程に変更が生じることもあり、通例小休しか予定のない石部宿に宿泊することもあった。
 宇治へ向かう往路は、復路とくらべて荷物が少なく一行の規模も小さいはずであるが、元禄十四年(一七〇一)の岡崎宿(愛知県岡崎市)の場合では公費で支払われる人足賃は一八〇人分を予定していた。これを超過した場合は各伝馬宿の負担であった。また、一行は約四〇〇人であったという(『宇治市史』)。
 八代将軍吉宗(よしむね)の享保改革により、御茶壺一行の経費が節減され、簡略化がはかられたが、それでも文久三年(一八六三)には御差副御数寄屋頭一人・御数寄屋二人・二人衆・三人衆・五人衆の合計一三人と、御茶壺三棹・御用金一棹が小島本陣で休憩をとっている。
 御茶壺そのものの休憩場所については、本来本陣に置かれるべきものであったが、石部宿の場合は「いつのころよりか」木村屋(谷町にあったと思われる)に置かれ、本陣には随行の御差副御番衆が入るようになっていた。このことについて本陣より、問屋を通じて御数寄屋頭・二人衆と相談の結果、再度文久三年より御茶壺の本陣入りが復活したとある(『小島忠行家文書』「宿帳」文久三年五月六日条)。いずれにせよ本陣で休憩をとれるのは一行のごく一部であり、多くの人足や人馬が随行し、旅籠などで休憩したと思われる。

写138 御茶壺道中 写真は毎年5月、江戸時代の御茶壺道中を再現し、京都建仁寺より八坂神社までの行程を行くもの。このような茶壺の一行が、毎年東海道・中山道を往復した。

 このような御茶壺一行に対して、宿場の人々や、農繁期に人馬を提供しなくてはならない助郷村の人々が、御茶壺一行は格別幕府の権威を帯びたものとしてとらえていたことは、「茶壺に追われてド(戸を)ピッシャン、抜けたら(通過すれば)ドンドコショ」と唄う童謡からも察せられるのである。
表44 御茶壺道中の石部宿通過
紀年西暦月日内訳備考
万治316606月5日尾州御茶壺、奉行 幡野弥五兵衛泊り
寛文1216728月16日紀州御茶壺、奉行 江間源右衛門・内藤半左衛門泊り
延宝2167410月13日紀州御茶壺下り、泊り
  316755月7日尾州御壺奉行 武野新五左衛門・松瀬甚内
  316755月21日   〃      〃      〃泊り
  416768月4日紀州御茶壺、加茂田権右衛門泊り
  516776月16日尾州御壺奉行 武野新五左衛門泊り
  516779月15日紀州御茶壺、川嶋九右衛門泊り
  616785月27日尾州御壺奉行 武野新五左衛門泊り
  816806月13日   〃   泊り
貞享216856月7日   〃   泊り
元禄716945月29日不詳泊り
  1216996月11日不詳泊り
  1418175月4日御茶壺差添 遠山鉄十郎、御茶壺水口泊のところ、松ノ尾川支、土山泊。泊り、御茶銘 寅申・日暮・袖挾
文政518224月26日御茶壺差副 本間十左衛門泊り
天保218315月5日御茶壺通行につき、出役 吉田平右衛門
  1518444月29日御茶壺差添 原田雄次郎
嘉永118485月14日御茶壺差添 嶋田常次郎、出役 野口庄之助石部泊の予定を変更
  21849閏4月19日  〃   大久保寛次郎
  418515月19日御茶壺差添 長井左衛門、出役 沢田啓助
  518524月26日  〃   山岡雄次郎
  618533月1日紀州様御数寄屋頭 住山楊甫上り、関立、泊り
  718545月29日御茶壺差添 石原房之助
安政218555月5日  〃   二条御番 窪田小兵衛
  318565月7日  〃   石原藤太郎
  418575月28日  〃   二条御番 三橋藤右衛門
  518585月8日  〃   小栗五六
  618595月19日  〃   松平次郎左衛門
  718605月5日  〃   仙波太郎兵衛、出役 川北由市泊り、水口立、総人数32人
文久118615月7日  〃   戸田金次郎、出役 伊藤官右衛門
  218625月22日  〃   小沢新十郎、出役 深柄復助
  318635月6日  〃   御数寄屋頭 星野隆円御茶銘 寅申・埋木・太郎五郎
元治118645月11日  〃   御数寄屋頭 倉田道清
慶応218665月5日御茶壺御茶銘 福海・志賀・旅衣
*『石部町史』、『小島忠行家文書』「宿帳」、および『膳所領郡方日記』による。
*備考欄中、特に記述のないものは、上り 水口泊、石部・草津小休、大津泊の行程をとっている。また、通行先触、役人出役の史料が確認できて、通過が不明のものは省略した。