石部宿を通過する御茶壺の一行をみると、徳川御三家の内の尾張・水戸両家への一行が万治(まんじ)三年(一六六〇)を初見として貞享(じょうきょう)二年(一六八五)まで一〇回ほど小島本陣に宿泊している(『小島忠行家文書』「宿帳」)。
将軍家へ献上するための御茶壺一行については、元禄七年(一六九四)を初見として、慶応(けいおう)二年(一八六六)まで毎年五月初旬ごろ水口宿で宿泊、石部宿・草津宿で小休、大津宿で宿泊という行程がとられていたようである(『石部町史』、『小島忠行家文書』「宿帳」、『膳所領郡方日記』)。
御茶壺の一行が宿場に小休(休憩)・宿泊するにあたって、通行の数日前に宿場に先触(さきぶ)れが出されていた。
一、御茶壺御登り近々御通行ニ付、左之通
一、石部宿直御通江地方役人壱人
但し、御下り之節は草津宿へ壱人
一、御領分中掃除、石部・草津斗(ばかり)手桶
但し、御下り之節は草津迄手桶
一、川支配 郷代官三人
一、石部宿直御通江地方役人壱人
但し、御下り之節は草津宿へ壱人
一、御領分中掃除、石部・草津斗(ばかり)手桶
但し、御下り之節は草津迄手桶
一、川支配 郷代官三人
と郡方(こおりがた)役所より石部宿へ役人が一人出役してくること、草津宿とともに領内の通行路の掃除、さらに直接通路とならない復路(中山道)通行の際にも、石部宿より草津宿へ手桶持参の雑役を課せられていたこと、川支配については郷代官三人があたることなどが指示されている(『膳所領郡方日記』文化十一年四月二十一日条)。
このような先触れがあったにもかかわらず、雨による増水などで川支えとなり、日程に変更が生じることもあり、通例小休しか予定のない石部宿に宿泊することもあった。
宇治へ向かう往路は、復路とくらべて荷物が少なく一行の規模も小さいはずであるが、元禄十四年(一七〇一)の岡崎宿(愛知県岡崎市)の場合では公費で支払われる人足賃は一八〇人分を予定していた。これを超過した場合は各伝馬宿の負担であった。また、一行は約四〇〇人であったという(『宇治市史』)。
八代将軍吉宗(よしむね)の享保改革により、御茶壺一行の経費が節減され、簡略化がはかられたが、それでも文久三年(一八六三)には御差副御数寄屋頭一人・御数寄屋二人・二人衆・三人衆・五人衆の合計一三人と、御茶壺三棹・御用金一棹が小島本陣で休憩をとっている。
御茶壺そのものの休憩場所については、本来本陣に置かれるべきものであったが、石部宿の場合は「いつのころよりか」木村屋(谷町にあったと思われる)に置かれ、本陣には随行の御差副御番衆が入るようになっていた。このことについて本陣より、問屋を通じて御数寄屋頭・二人衆と相談の結果、再度文久三年より御茶壺の本陣入りが復活したとある(『小島忠行家文書』「宿帳」文久三年五月六日条)。いずれにせよ本陣で休憩をとれるのは一行のごく一部であり、多くの人足や人馬が随行し、旅籠などで休憩したと思われる。
写138 御茶壺道中 写真は毎年5月、江戸時代の御茶壺道中を再現し、京都建仁寺より八坂神社までの行程を行くもの。このような茶壺の一行が、毎年東海道・中山道を往復した。
このような御茶壺一行に対して、宿場の人々や、農繁期に人馬を提供しなくてはならない助郷村の人々が、御茶壺一行は格別幕府の権威を帯びたものとしてとらえていたことは、「茶壺に追われてド(戸を)ピッシャン、抜けたら(通過すれば)ドンドコショ」と唄う童謡からも察せられるのである。
紀年 | 西暦 | 月日 | 内訳 | 備考 |
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万治3 | 1660 | 6月5日 | 尾州御茶壺、奉行 幡野弥五兵衛 | 泊り |
寛文12 | 1672 | 8月16日 | 紀州御茶壺、奉行 江間源右衛門・内藤半左衛門 | 泊り |
延宝2 | 1674 | 10月13日 | 紀州御茶壺 | 下り、泊り |
3 | 1675 | 5月7日 | 尾州御壺奉行 武野新五左衛門・松瀬甚内 | |
3 | 1675 | 5月21日 | 〃 〃 〃 | 泊り |
4 | 1676 | 8月4日 | 紀州御茶壺、加茂田権右衛門 | 泊り |
5 | 1677 | 6月16日 | 尾州御壺奉行 武野新五左衛門 | 泊り |
5 | 1677 | 9月15日 | 紀州御茶壺、川嶋九右衛門 | 泊り |
6 | 1678 | 5月27日 | 尾州御壺奉行 武野新五左衛門 | 泊り |
8 | 1680 | 6月13日 | 〃 | 泊り |
貞享2 | 1685 | 6月7日 | 〃 | 泊り |
元禄7 | 1694 | 5月29日 | 不詳 | 泊り |
12 | 1699 | 6月11日 | 不詳 | 泊り |
14 | 1817 | 5月4日 | 御茶壺差添 遠山鉄十郎、御茶壺水口泊のところ、松ノ尾川支、土山泊。 | 泊り、御茶銘 寅申・日暮・袖挾 |
文政5 | 1822 | 4月26日 | 御茶壺差副 本間十左衛門 | 泊り |
天保2 | 1831 | 5月5日 | 御茶壺通行につき、出役 吉田平右衛門 | |
15 | 1844 | 4月29日 | 御茶壺差添 原田雄次郎 | |
嘉永1 | 1848 | 5月14日 | 御茶壺差添 嶋田常次郎、出役 野口庄之助 | 石部泊の予定を変更 |
2 | 1849 | 閏4月19日 | 〃 大久保寛次郎 | |
4 | 1851 | 5月19日 | 御茶壺差添 長井左衛門、出役 沢田啓助 | |
5 | 1852 | 4月26日 | 〃 山岡雄次郎 | |
6 | 1853 | 3月1日 | 紀州様御数寄屋頭 住山楊甫 | 上り、関立、泊り |
7 | 1854 | 5月29日 | 御茶壺差添 石原房之助 | |
安政2 | 1855 | 5月5日 | 〃 二条御番 窪田小兵衛 | |
3 | 1856 | 5月7日 | 〃 石原藤太郎 | |
4 | 1857 | 5月28日 | 〃 二条御番 三橋藤右衛門 | |
5 | 1858 | 5月8日 | 〃 小栗五六 | |
6 | 1859 | 5月19日 | 〃 松平次郎左衛門 | |
7 | 1860 | 5月5日 | 〃 仙波太郎兵衛、出役 川北由市 | 泊り、水口立、総人数32人 |
文久1 | 1861 | 5月7日 | 〃 戸田金次郎、出役 伊藤官右衛門 | |
2 | 1862 | 5月22日 | 〃 小沢新十郎、出役 深柄復助 | |
3 | 1863 | 5月6日 | 〃 御数寄屋頭 星野隆円 | 御茶銘 寅申・埋木・太郎五郎 |
元治1 | 1864 | 5月11日 | 〃 御数寄屋頭 倉田道清 | |
慶応2 | 1866 | 5月5日 | 御茶壺 | 御茶銘 福海・志賀・旅衣 |