石部躑躅社中

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この建碑者は「石部躑躅(つつじ)社中」である。この同好の集(つど)いの名は、もちろん「つつじいけて」の句から名付けたものであろう。そのメンバーを知りたいと思うがすでに二〇〇年近くたった今日、その事実を知る資料も失われたのが残念である。
 船形光背のような姿をした花崗岩の石材はおそらく石部近辺のものであろうがとても姿がよい。だが、残念なことに風雪に朽ち易く、もろい石質である。
 この真明寺に建碑した俳人結社の入らは同寺に次のような位牌を供えておいた。表面には
  芭蕉桃青法師
裏面には
法師者伊賀人。藤堂氏家臣也。初名松尾甚七郎宗房。遁世遊於俳諧。号風蘿坊。意為一家宗。元禄七歳甲戌十月十二日。寂於大坂。年五十有二

    寛政八年丙辰秋七月。造立石碑於青木山真明寺院。収月供及地面料
                                        施主 石部躑躅社中
と木牌に陰刻されている。たて五四・五センチメートル、幅一〇・二センチメートルである。
 社中の人々がこの建碑と共に芭蕉翁の追善のためにこうした位牌を残したことは尊いことであるが、没年が五十二歳とはどうしたことであろうか。彫り手に渡した原稿が誤っていたのか、彫る人が誤ったのか、それとも当時は五十二歳が通常であったのか。もちろん現今は五十一歳が定説である。
 またこの施主というか社中の人々はよく気のつく人とみえて、建碑のために地面料や翁への供養料などを添えていることにその人柄の尊さを感じる。
 この時代の文人・俳人として石部には服部亀渕・服部楽甫・服部鶴甫、菩提寺(甲西町)には伊地知鉄翁、平松(甲西町)には代官であった奥村亜溪、その妻志宇、岩根(甲西町)には谷口桂石・宗潤、三雲(甲西町)には丿〓(へつほつ)、水口(水口町)には加藤蜃州などがいた。これらの人々はこの建碑に直接、間接に協力していたと推測できる。なかでも建碑の中心人物であったのが服部亀渕であったと思われる。