俳人亀渕

485 ~ 487ページ
野洲川の石部の下流に「亀渕(かめぶち)」といううず巻く危険な場所が鎌倉時代から伝えられているが亀渕はその地名を自分の俳号とした。現在の石部頭首工の菩提寺山麓のあたりであった。
 江戸末期の俳書には「イシベ 亀渕」とよくその名が記され、世に知られていた。しかも芭蕉の墳墓の地、膳所の義仲寺(大津市馬場)へはよく参拝している。芭蕉の百回忌がここで勤修されたのはもちろんであるが、故郷の伊賀上野や柘植(つげ)(三重県阿山郡伊賀町)あたりで勤められたことも当然である。そのたびごとに亀渕はこの石部の宿を出て往来したのである。
 『千載集』という当時この地を訪れた文人らの遣墨集があるが実に驚くほどの人々が石部、美(うつく)シ松や奥村代官(亜溪・志宇夫妻)をたずねたことが、それぞれ記録されている。
 現在の日本精工の北に位置している所(字大塚)に古くから服部氏墓地があって、亀渕の墓はその一角にあり、「亀渕」とのみ彫られた小さな素朴な石墓碑である。いかにも文人の墓らしく尊く思う。かの京嵯峨にある落柿舎の裏にひっそりとたつ芭蕉門人、向井去来の墓を思い起こさせるもので、今も杉苔に柔らかく包まれている。
 なおこの亀渕は盛章というのが本名であって和歌もよくした。享和二年(一八〇二)十二月二十四日、六十二歳で没した。
 ところで平松の南照寺の境内に「亀渕先生落髪之墳」という四角の石碑がある。向かって右側面には
   竹の月浮世の外の住居哉
と刻され、左側面には「天明丙未十一月」、裏面に「宮嶋元渡建之」とある。エトで丙未の組み合せはなく、未の年とすると天明七年(一七八七)となる。この年は亀渕四十六歳にあたる。

写140 俳人亀渕落髪之墳 (甲西町南照寺境内)

 先述した真明寺境内建碑の寛政八年といえば亀渕五十五歳にあたり、すでに発心・落髪し雅道・仏道に精進して九年目にあたる。おそらく芭蕉翁を慕う心でじっとしていられない文人であっただろうと推察するに十分である。
 もちろん当時の真明寺の和上であった一四世真誉性元の力添えもあったことはいうまでもない。この碑文の筆者は亀渕か志宇かと想像しているが確たる資料は見当たらない。いずれにしても芭蕉没後一〇〇年ごろには全国各地に「芭蕉に帰れ」と旗印(しるし)をかかげて、あちこちに芭蕉の句碑が建立されたが、石部においてもこうした句碑が建立されたことは文化人のいた大きなしるしといえよう。
 ちなみにこの真明寺境内の墓地の片端に次のような句が刻されている墓石がある。
  正面  尾州熱田駅 鈴木七左衛門長裕墓
  左側  太清居秀外一挙居士
  裏面  天保十一年庚子七月二十八日逝
とあって、その碑の右側面に流麗な字で、
  文月や雲のたしなき夜の空
と句が陰刻されている。芭蕉句碑建立から四四年後のことである。
 どのような人か判明しない。真明寺との因縁もわからない。あるいは芭蕉の勉強に行脚し、この碑を縁として尋ねて来た人か、それとも法名の「一挙居士」という名から武道の修業中の人が石部の宿へ来た時、無常の風にさそわれて逝去したものか。石部町内にみられる句碑は以上の二基である。

写141 鈴木七左衛門墓碑
(真明寺境内)