蕉門の俳人たち

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さて元禄四年(一六九一)に上梓された『俳諧七部集』、また芭蕉七部集という書物七冊にはいろいろの俳人が近江の地を詠んでいる。七冊とは冬の日・春の日・阿羅野・ひさご・猿蓑(さるみの)・炭俵・続猿蓑の七集である。集められた句の数は通して三、四八二句である。その中の「猿蓑」の中に
  見やるさえ(へ)旅人さむし石部山 大津尼智月
というのがある。一、六七三番目の句である。
 作者の智月という人は大津の人で川井乙〓(おとくに)の母である。芭蕉はこの大津にある智月の新宅を訪れて、「人に家を買はせて我は年忘」という句を吟じ、智月に乞われて「幻住庵記」を書き与えたほどの親しい間柄であり、智月はその後、芭蕉の臨終・逝去を聞いてすぐさま芭蕉の浄衣を涙と共に縫ったほどの芭蕉を慕った女性であり、芭蕉の中陰中、中心人物となった俳人であった。
 この句は智月がいろいろと問題のあった俳人路通に同情した優しい人柄の句である。その「路通」が行脚を送りて」と前書をしての句である。
 句意は「石部山が禿げて白く見えるかなたを、旅人が見るからに寒むそうに通って行く。」という光景を感じたまま、みたままに情をこめて涙をながしつつ詠んでいる句である。古い註釈書などには「石部山とは近江甲賀郡石部駅の付近にある。古く磯部山と称した。」とある。
 元禄十一年(一六九八)「故郷も」という歌仙中に去来と卯七の連句がみえる。
    石部まで通しの駕籠をいふてきて  卯七
    御食(おめし)くやれとこころ中(じゅう)呼ぶ    去来
 貞享三年(一六八六)八月下旬、去来が妹千年(ちね)に同伴して伊勢参宮をした折の記である。『伊勢紀行』に千子が「紅粉を身にたやさねばいつとても雛の見えざる姥がもち哉」と詠んだその次に
    日高く石部にとまりて、足あらひ物喰ひなどしけれど、夜はまだ戌(いぬ)にみたず
   秋の夜も寝ならふ旅のやどり哉   〈千子〉去来

    〈かれは〉千子、はじめて父母の国わかれ来ぬる、憐(あはれ)も大かたならねど、とかく言(いひ)まぎらしつゝ
   長き夜も旅草臥(くたびれ)に寝られ鳧     〈去来〉千子

横田川、朝のうちに渡るぞ冬のこゝちしぬる。水口過(みなくちすぐ)るほどは、ねぶたくてもの言(いひ)いでず。土山に馬のかひかふて蟹が坂のぼる。

     (以下略)
などとあって当時の姿をなつかしむものである。
 芭蕉の門弟尚白の句にも
     草津
   晦日(つごもり)も過行うばがい(ゐ)の子かな    尚白  (猿蓑)
   よこ田川植処なき柳かな      尚白  (釿始)
   しがらきや茶山しに行く夫婦づれ  正秀
   魂(み)迎え水口だちか馬の鈴      珍碩
   土山や唄にもうたふはつしぐれ   闌更
神無月廿日あまり、故翁の湖東行脚の旅をしたひ、日野山の辺を過るに「剥れたる身にはきぬたのひゝき哉」と聞えしも今はむかしにてめでたき御代のしるしなるにや、山も岡となり、林も畑とかはりて白波の煩ひもなきをりから紫英亭にいたりてしばらく時雨をはらす

   剥れざる身に冬しらぬ舎(やど)りかな   闌更
など吟じた京都東山芭蕉堂の高桑闌更も、前記した『千載集』の序文を記した大坂の勝見二柳も石部を往来した。
 天保六年(一八三五)二月に京都東福寺の住職の辞令を徳川家斉(いえなり)より受けた松堂虚白禅師は三月十九日に京を出発し江戸までの東海道道中をしるした『虚白禅師東海東山日記』には
  弥生十九日 雨中発京
    石部泊 土山にて
在京中、酒食に富めるといへども好める蕎麥に窮せしこと途中より草庵へ通しければ素人の手業には調ひかたしとて東海道に名を得たる河内屋藤兵衛なるもの妙手を施せしに参府の同列各腹の皺を延されし

   世を旅のはしめや庵の店屋蕎麥
     (以下略)
など吟じつつ京都を三月十九日に発ち、江戸駒込の東禅寺末龍光寺には四月二日に到着した。その当時の傑僧虚白は甲賀郡土山常明寺に縁故のある僧で、俳僧でもあった。
  孑孑(ぼうふら)や蚊になるまでの浮き沈み
はこの僧の名句であり、広く世に知られた。
 この虚白を慕った俳人梅井梅室もこの石部を経て大野、土山へたびたび歩を運んだ。ある日、隣の菩提寺(甲西町)へ遊び、
  雲分てのぼった寺にかきつばた
と吟じた。現在もその句碑が西応(さいおう)寺にある。その句碑の字は土山町大野三軒屋の魚屋で俳人の三好赤甫の手によるものである。彼は石部に来て
  凩(こがらし)に雲もとどめず石部山
 寛政元年(一七八九)正月、京都の大丸を創始した下村春披もこの地を訪れて
 春風やよこたの川を横に吹
と吟じている。