安永(あんえい)五年(一七七六)十月、堀江一の側座で初演された菅専助(すがせんすけ)の作品で、その内容のあらましを記すと、信濃屋の娘お半は乳母や丁稚の長吉を連れて当時流行した伊勢参りをした。その帰途、隣の帯屋長右衛門と出逢う。一同は石部の宿の出羽(でば)屋に宿泊することとなった。かねてお半に思いを寄せていた長吉はこれが旅の最後の機会と夜中にお半の寝室に忍び込んだ。お半は驚いて、ちょうど隣室にいた長右衛門の部屋へと逃げ、その長右衛門の蒲団の中へ身をしのばせた。そのうちつい二人の体が触れて長右衛門と契りを結ぶ結果となる。この場面は「石部の宿の仮り枕」と語られる。長吉は二人の様子を覗きみて身をもだえ怒って、その腹いせに長右衛門が遠州侯から預かっていた正宗の刀の中身を自分の脇差とすりかえてしまう。やがて夜が明けると何事もなかったようにして一行は帰途につく。
写142 石部宿屋の段 世話物の名作『桂川連理柵』の物語の発端となる場面。伊勢参宮の帰りの信濃屋の娘お半は、商用帰りの隣店の帯屋長右衛門と偶然石部宿でいっしょになり一泊する。お半は丁稚長吉にいいよられ、隣室の長右衛門のもとへのがれ、一夜を共にする(写真提供・国立文楽劇場)。
この「お半・長右衛門」の少し前の宝永(ほうえい)五年(一七〇八)に竹本座で初演されたものに『丹波与作待夜の小室節』という近松門左衛門の五十六歳の作品があって、その中に丹波の国の城主由留木(ゆるぎ)家の姫の調(しらべ)は関東の入間(いりま)家へ養子分として嫁入りすることになったが、幼い身のころであったので出発の間ぎわに行かないという。そこで困り果てた時、行列の供の一人として雇われた少年三吉という馬子が、姫の機嫌直しのためと道中双六(すごろく)を姫らと遊んだ。姫の乳母の滋野井が喜んでその三吉にお礼を与えて、いろいろと話をしていくうちに、その三吉こそ滋野井と離別した伊達の与作との間の一人息子与之介であることを知って驚く。ところが滋野井はこの馬子の三吉が姫の乳兄弟であると知られては困ると、ついに晴れて親子の名乗りもせず恨み泣く三吉を追い返えす。という子別れの場面から始まる上巻から中、下巻へと展開していく物語である。その中の滋野井と三吉との名乗りの場面に、
三吉つく/゛\聞きすまし、由留木殿の御内、お乳の人の滋野井様とはお前か。そんなりや、おれが母様と抱付けば、アゝこは慮外な、おのれが母様とは。馬方の子は持たぬと、もぎ放せばむしゃぶりつき、引きのくれば、縋りつき、なんのない事申しませう。わしが親は、お前の昔の連合(つれあい)、この御家中にて番頭、伊達の与作、その子は私、こな様の腹から出た。与之介はわしぢゃわいの。父様は殿様のお気に違うて国をお出なされたは、三つの時でおろ覚え、沓掛の乳母が話には、母様も離別とやらで、殿様に御奉公、こなたを乳母が養育し、父様に会はせたう思へども、甲斐もない。母様の細工の片袋を証拠に、由留木殿のお乳の人、滋野井を尋ねよと、ねんごろに教えて乳母はおれが五つの年、久しう痰を煩うて、あげくに鳥羽の祭に行て餅が喉に詰って、つひ死んでのけました。在所の衆が養ひて、やう/\馬を追ひ習ひ今は近江の石部の馬借に奉公しまする。これ守袋を見さしゃんせ、なんの嘘を申しませう。……
中の巻の旅篭屋の段の中には「石部金吉(いしべきんきち)、泊りなら泊めてたも、なんぼ先へ行かんしても、旅篭屋は皆一つ、同じねを鳴く鴬の春はござれの伊勢衆でないか、……」とあって手堅い融通のきかないものを「石部金吉」というところから、五十三次の宿場のひとつであった石部に言いかけて門左衛門は作った。またその文中に、「肩の重たい石部の八蔵に請合うて貰うた。」というのがあり、肩が重い程金をたくさんもっていることから石部とかけた八蔵などと縁語をつけた表現もみられる。その馬方の石部の八蔵とこの三吉の父与作とが喧嘩をする場面があって、そのあと、「石部の自然生(じねんじょ)か」「与作殿か」などの会話もあって八蔵と三吉との出会いの場面が出てきて展開していくのである。
双六の形で次々と宿場の風習などを述べながらこの作品によって世間の人々に魅力を与えたことは事実である。
こうして宿場としての石部の名は世に知られたものであった。