華頂(一七四〇―一八二七、諱文秀、字華頂、別に直鈎(こう))は石部宿藤谷氏に生まれ、どのような事情か「幼にして出塵(出家)の志あり」宝暦四年(一七五四)一五歳のとき比叡山に入り、方玉律師のもとで教律を修めたが、志すところあり、宝暦八年春下山して近江日野正明寺の中嶽律師のもとに参禅した。その後伊予の湛堂禅師をはじめ各地にすぐれた師を求め、やがて駿河の白隠禅師のもとに落着くことになった。白隠禅師のもとにあること三年、白隠禅師の没後正明寺に帰り、周辺の人びとに仏法を説いた。天保十年正明寺住持真寿が編んだ『華頂禅師仮名法語』(佛教大学図書館所蔵)はこの時期の禅師の法語の一部をまとめたものであろう。農夫の臼挽歌になぞらへて仏法を解りやすく説くなど、民衆の教化につとめた。華頂禅師の徳望は広く聞えるところとなり、寛政十二年(一八〇〇)一月禅師六十一歳のとき宇治の黄檗山万福寺二五代住持に迎えられた。住持にあること一〇年、その後富山国泰寺のもとめに応じて、中国臨済宗開祖の法語集「臨済録」を提唱し、民衆の教化を続けた。禅師は文政十年(一八二七)一月十五日正明寺で八十八歳の生涯を閉じた。禅師にはきびしさと同時に温かく風雅な一面があり、広く民衆の尊敬をうけたと伝えられている。
写143 華頂禅師画像 禅師晩年の正装した姿を描いたものとされている。
(石部町歴史民俗資料館所蔵)