一八世紀以降、動植物・鉱物の効用、来歴・産地などについて研究しようとする物産学への関心が高まってきた。江戸の平賀源内、大坂の木村蒹葭堂などはその代表的学者である。近江にも岩石を収集し、その性状・来歴・産地に考察を加えた木内石亭(一七二四―一八〇八)がある。石亭は収集し、あるいは実見した石六四〇種余を九つに分類し説明を加えた『雲根志』を著している。その石のなかには化石や石器も含まれている。石亭が「弄石の友」として親交のあった人に服部未石亭(み(び)せきてい)(一七一二―七九)がいる。未石亭(通称善七、号確甫)は石部宿の出身であったが、略歴は明らかでなく『雲根志』の記事中に断片的に動向を知れるにすぎない。石亭は近江各地で岩石の採集をしているが、石部宿周辺では宿西入口の山の自然灰、宿北の山中の岩根村常永寺庭のヒノキ化石、宿西出口新道五軒茶屋近くの白亜土の採集は、いづれも未石亭の助力によるものであったであろうか。石部金山の岩窟は周辺の弄石家には奇石採集の格好の場であった。浮名(かるいし)もその一つであるが、宝暦十年(一七六〇)五月窟内で「上のかたより麺のごときもの下る、太き木綿糸のごとく、長さ三五分或ハ一寸、色白かたし」とされるものを発見し、未石亭が石亭に名を問うたところ、索麺(そうめん)石と答えた。また宿付近の山で松の下を掘り、十文字形の糸巻のような石を数百箇採集している。糸巻石としているが、加工された石器を思わせるものである。石亭は平賀源内・木村蒹葭堂とも弄石を通じて交流があり、さらに京都・大坂でさかんに催された産物会にも参加し、得られた知見は「未だ石亭にあらず」と年少の石亭を敬慕した末石亭に伝えられ、啓発されるところが多かったと考えられる。埋蔵量は乏しいが各種の鉱物の点在する石部の地を地盤として、木内石亭という熱心な弄石家に触発されながら服部未石亭は活躍したといえよう。
石部の地理的位置からも京都の文化を吸収する条件に恵まれており、京都に遊学した人があったと考えられる。現在確認しうるのは福嶌元厚一人である。元厚は京都で漢方・蘭方両医学を教え、名医の評判が高かった小石元瑞(一七八四~一八四九)に入門している。元瑞は医をよくしただけでなく文雅の人としても名が聞え、元厚が元瑞のどの側面について学び、その後どのように活躍したか知れない。