滋賀県の成立と石部村

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明治新政府は、成立後日を置かずして封建制度を打破し、近代統一国家(中央集権国家)の体制を整えるためにさまざまな改革を断行していった。それらの諸改革のうち、本節では地方行政に関係する事柄についてみることにしよう。
 まず、滋賀県の成立と明治初期の町村行政についてみるために、廃藩置県(はいはんちけん)と戸籍法の制定をとりあげる。
 明治四年(一八七一)七月、政府は在京五六藩知事を召集して藩を廃して県とする旨の詔書を出した。これによって版籍奉還後も続いていた藩は廃止され、中央集権的統一国家の体制づくりが一段と進んだ。この時新たに二六一の諸藩がそのまま県となり、二年前から県となっていたのを合わせて三府(東京・京都・大阪)三〇二県となった。つまり、府藩県の三治から府県二治の統治形態となった。この後県の合併は急速に進み一時期三府三五県にまで減少したが、明治十年代に福井県や奈良県などが再設置されて今日にほぼ近い三府四三県となったのは同二十一年(一八八八)のことである。
 滋賀県についてみると、近江国の領有関係は幕藩体制下には複雑に入り組み、藩の封地だけでも三〇有余をかぞえ、一村に四、五人の領主が存在することも珍しくなかったという。このため滋賀県の成立には時間を要したが、同五年(一八七二)九月、今日の滋賀県にほぼ近い輪郭が形成された。その成立過程は表45に示した。

表45 滋賀県の成立過程
〔注〕明治4年7月14日成立の諸県は近江国に本拠をもつ県(藩)に限った。ほかに淀県(淀藩)など他府県に本拠をおいた14県があった。

 今日の石部町は、同二十二年(一八八九)四月一日町村制の施行とともに石部村・東寺村・西寺村の三村が合併して石部村となり、同三十六年(一九〇三)六月一日から町制が施行されて今日に至っている。ところで、この三村は幕末期には領主をそれぞれ異にしていた。甲賀郡もまた「領主の数四十有余を算」し、「其の犬牙錯雑(複雑に入り組み)変遷の甚しき」状態にあった(『甲賀郡志』上巻)。石部村は膳所藩の支配下であったので同四年七月膳所県へ、同年十二月大津県へ編入された。また東寺村は幕府直轄領であったので同元年(一八六六)四月大津裁判所の管轄となり、同四年閏(うるう)四月そのまま大津県へ移行した。西寺村は京都伏見に城下をおく淀藩の支配下にあったので同年七月淀県へ、同年十二月大津県に編入されるという経緯をたどった。