政府は廃藩置県の詔書と前後して、明治四年四月戸籍法を発布した(太政官布告第一七〇号)。戸籍法制定の主旨は、その前文に述べているように国政遂行の基本要件として、まず「戸数人員ヲ詳(つまびらか)ニ」することにあったので、それは本来地方制度と直接に関係するものではない。しかし、法の実施上の必要から全国に区という新しい行政区域を設定し、また戸籍事務を遂行する地方行政機関として戸長・副戸長を創設した(第一則)。このことは、それまで手をつけられていなかった町村行政の改革をもたらし、結果からみれば明治地方制度に大きな影響を与えることとなった。特に、戸長・副戸長がこののちまもなく単なる戸籍吏から「土地人民に関係する事件一切」を担う地方行政機関に転化したことの意義は大きいといわれている(亀掛川浩『明治地方自治制度の成立過程』)。
ここで町村行政の改革についてみる前に、石部町に残っている戸籍関係の資料について少し触れておこう。
明治に入った当初は、人口調査と宗門改(しゅうもんあらため)を兼ねた旧来の「宗門人別改帳」がなお作成されていた。東寺村に同二年(一八六九)と同三年に同村庄屋又四郎らが大津役所に差し出したものが残っている。どちらも幕末からの様式を踏襲して、檀那寺(天台宗十王寺)がまず上段に大きく記され、下段に家族の名前・年齢・家畜の数が書かれている(『東寺地区共有文書』)。しかし、「宗門人別改帳」は身分制が固定し、また移動・職業の自由が原則的には認められていなかった封建社会に適合したものである。したがって新政府がまさに実施しようとしていた税制・徴兵制・学制など身分制の撤廃、移動・職業の自由を前提とする新しい諸制度にとっては多くの欠陥を有していた。
政府は「全国総体の戸籍法」を一斉に実施すべく、同四年四月戸籍法を発布し、翌五年二月一日から一〇〇日にわたって編成することを決定した。それは完成した同年の干支(えと)をとって壬申(じんしん)戸籍と呼ばれているが、石部町でももちろん作成された。たとえば西寺村のそれによると、戸籍法の施行に合わせて同年二月から始まり同十六年(一八八三)ごろまでの異動が詳細に書きこまれている。上段に氏神と檀那寺、下段に何番屋敷住という形で住所、戸主の出自(しゅつじ)(生まれ)、職業・年齢・生年月日が初めに記され、ついで家族の姓名・職業・年齢・父母や妻の出自の記載が続く。この壬申戸籍は、従来の宗門人別改帳を廃止して、士農工商に代わる華族・士族・平民をその居住地において同一戸籍に編成したので、全国の人口とその移動状況が初めて正確に把握された。壬申戸籍は、周知のように封建制度のもとにおける身分差別を温存する制度的基盤を提供するものであった。