区戸長制

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戸籍法の施行を契機に、政府は区の設置を地方に促すとともに、ほぼそれと平行して地方行政の一元化にも乗り出していった。同年四月公布の太政官布告第一一七号がそれである。
一、庄屋・名主・年寄等都(すべ)テ相廃止、戸長・副戸長ト改称シ、是迄取扱来リ候事務ハ勿論、土地人民ニ関係ノ事件ハ一切為取扱候様可致事。

 これによって、本来は戸籍吏として設けられた戸長・副戸長は庄屋など町村役人の職務と権限を引き継ぐこととなり、訴訟以外の「土地人民ニ関係ノ事件ハ一切」処理することとなった。
 滋賀県についてみると、まず区の設置については同五年二月ごろからその準備が始まり、十月県下一二郡に計一五八の区が定められた。一区の平均一一・九町村であったという(井戸庄三「滋賀県における区制と明治六~十二年の町村合併」『人文地理』一三巻五号)。石部・東寺・西寺の三村は、このとき柑子袋村はじめ一一ケ村(甲西町)とともに一〇区まであった甲賀郡の第一区に属していた(第三章第一節参照)。
 滋賀県は区の設置と前後する同五年八月、名称の統一をはかるべく庄屋を戸長、年寄を副戸長と改称した(第一五六号達)。また区の戸長・副戸長については、当分の間総戸長・副総戸長とし(同前)、翌六年(一八七三)三月に正・副区長とした(第二三八号達)。
 さらに、同年十一月には、同じ日に区戸長に関する二つの重要な達を公布した。一つは、権限の一元化をはかるために、「戸籍ハ固(もと)ヨリ土地人民ニ関スル諸事務一切」を区戸長に処理させることとした第一〇六九号達である。これによって、区戸長は町村事務はもちろんのこと、「訴訟事件ニ関スルノ権」を除くその他の国家事務、つまり学区取締(明治五年八月)・徴兵令(同六年一月)・地租改正条例(同六年七月)などをも一切処理することとなった。
 二つは、区戸長の選出方法を定めた第一〇七〇号達である。政府は、区戸長を置いた当初にはその選出方法にほとんど干渉せず、地方の実情に応じて相当自由に決定することを認めていた。滋賀県では、県令松田道之の下で公選という自治の要素を加味した次のような選出方法を定めていた。
 (1) 正副区長の選挙は、その区内町村の正副戸長より入札し、封のまま県庁へ差出す。
 (2) 正副戸長の選挙は、その町中その村中の小前(自作農)に至るまで入札し、封のまま県庁へ差出す。
 (3) いずれの選挙の場合も、入札者の氏名、押印のほか所有地反別を記載し、開票の公開はしない。

 なお、ここにみられる旧慣のなごりともいうべき諸規定、たとえば県が全面的に任命権を留保したこと、開票は非公開であったこと、および小前が公法上の権利をなお有していたことなどについては、同八年(一八七五)五月の改正法によってほぼ改められた。以上の区戸長の創設を通して、明治初期における地方行政の改革はひとまず一段落したのである。