石部の区戸長

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石部・東寺・西寺の三ヶ村の区戸長名について、三新法が施行される明治十年代初めまでをまとめたのが、表46である。史料の制約からすべての区戸長経歴者をあげることができず、また就・退任年月も明らかにできない。たとえば、この時期石部村では吉川小八・竹内吉兵衛・伊地知文三郎らも戸長となっているが、その就任時期ははっきりしない。
明治滋賀県におけるおもな行政改革と県令甲賀郡第1区
知事 辻将曹(元年4月~同年11月)
知事 朽木退一(元年11月~4年11月)
2
3
4県令 松田道之(4年11月~8年3月)
58月 庄屋年寄などの呼称を廃し戸長・副戸長に統一10月 甲賀郡は第1区~第10区に分割される。右の三か村を含む14か村は第1区に編入される。
10月区制実施
63月 総戸長を区長、副総戸長を副区長と改称3月 総戸長 山中又四郎
4月 区長 山中俣四郎
11月 区戸長の選挙方法定まり、権限も一元化される。   副区長 藤谷次右衛門
73月 区戸長官吏に準ずる身分となる。   区長 山中又四郎
8県権令籠手田安定(8年5月~17年7月)   区長 山中又四郎
5月 区戸長の選挙方法改正
8月 区長 三大寺専治
12月  〃   〃
   副区長 前田清兵衛
9   区長 三大寺専治
10   区長 三大寺専治
117月 三新法公布6月 区長 八田四郎治

明治石部村東寺村西寺村
11月 庄屋 勘左衛門
12月 庄屋 又四郎12月  〃   〃
25月 庄屋 九郎治5月 庄屋 又四郎、庄兵衛12月 庄屋 竹内勘左衛門
9月 名主 治右衛門    〃 勘重郎
    〃 次郎兵衛
34月 庄屋 山元順次1月 庄屋 又四郎6月 庄屋 勘左衛門
    〃 福嶋仲次9月  〃 勘十郎
46月 庄屋 前田清兵衛5月 庄屋 竹内勘重郎
    〃 小嶋金左衛門10月  〃 竹内勘十郎
    〃 福嶋真次郎
   年寄 植木義一郎
    〃 山元五郎兵衛
    〃 青木茂兵衛
55月 戸長兼庄屋 山中又四郎8月 庄屋 惣七
9月  〃  〃
66月 副戸長 三大寺専治3月 戸長 山中俣四郎
   戸長代 山元五郎兵衛
4月 戸長兼区長 山中俣四郎
   副戸長 北村文治郎
10月 戸長 北村文治郎
73月 戸長 北村文治郎9月 戸長 山本宗七
12月 戸長 三大寺専治10月  〃  〃   副戸長 青木茂平
812月 戸長 内貴周右衛門
    〃 里内清吉
   副戸長 奥野宗次郎8月 戸長 山本宗七
    〃 植村義一郎11月 戸長 山元角治郎
    〃 吉川与左衛門
91月 戸長 山元角治郎8月 戸長 竹内輿兵衛
2月 戸長 吉川慱治郎10月  〃  〃
109月 戸長 内貴長兵衛1月 戸長 吉川傳治郎1月 戸長 竹内輿兵衛
   副戸長 奥野宗治郎11月  〃  〃
115月 戸長 北邑文治郎6月 戸長 竹内輿兵衛
〔注〕甲賀郡第1区正副区長は、石部出身者に限った。
   『東寺地区共有文書』・『西寺地区共有文書』・『竹内淳一家文書』・『小島忠行家文書』などにより作成
表46 石部・東寺・西寺各村の区戸長(明治初期)

 戸長の交代時期である毎年七月(区長は九月)には、さきの第一〇七〇号達の定める手順を踏んで戸長の選出が進められたようである(『小島忠行家文書』「日誌」明治八年八月九日)。ただ、戸長・副戸長と改称された当初は、たとえば山中又(俣)四郎や山本宗七のように庄屋・年寄であった者がそのまま正・副戸長職を引き継ぐ事例が多くみられた。
 戸長の職務は、残されている史料による限り反別取調や田畑地価等級仕訳など地租関係のそれが圧倒的に多い。また、新政府の下で遂行された学校行政や徴兵関係もかなりみられるが、そのほか水利(水論)・財政も含まれ多岐にわたった。この時期、行政組織(機構)は整っていなかったので、彼らはおそらく多忙をきわめたであろう。すでに同八年八月、石部村でも戸長に「人撰入札」されながらも辞退する事例がみられたが(『同前』)、その一因はこのような戸長の多忙さによるものであったと考えられる。また、戸長は名誉職であったのでその待遇は低く、滋賀県は同七年(一八七四)九月、月額給料戸長六円、副戸長五円(正副区長は十三円と十一円)を基準とするよう定めていた(第一二六三号達)。
 区戸長となる者は、資質のほかに家柄や財産を兼ね備えた地方名望家であることが重要な資格要件であったことは疑いない。しかし、財産についていえば、必ずしもすべてが村で最上層に位置する土地所有者ではなかったようである。東寺村の戸長経歴者によってこれをみると、同九年一月当時、北村文治郎は同村五四戸中二番目の土地所有者(田畑宅地二町四反余)、山元角治郎は同四位(一町八反弱)であったが、吉川傳治郎は同一四位(一町一反余)にとどまっていたのである(『東寺地区共有文書』)。