明治十年代に入ると、豪農層を指導者としてあらゆる農民階層が参加した地租改正そのものに反対する一揆はしだいに下火となり、西南諸藩に続出した士族反乱も同十年(一八七七)の西南戦争を最後に終息した。しかし、ちょうどこのころから、政府は国会の開設を初めとして民主主義的な変革を要求する自由民権運動の台頭に直面することとなった。政府は自由民権運動に対して抑圧する姿勢をとり続けたが、同時にこれを部分的かつ段階的に受容する姿勢をも示した。そして、後者の姿勢は、まず三新法の制定となって現れたのである。
同十一年(一八七八)の四月から五月にかけて開かれた第二回地方官会議において、政府は立憲政体を漸次樹立する旨の声明を発表するとともに、地方統治機構を再編すべく地方三新法の原案を付議した。ちなみに、この会議には「前」と「現」二人の滋賀県令が出席していた。松田道之と籠手田安定(こてだやすさだ)である。松田はこの時、内務大書記官として三新法原案の起草に深くかかわり、また籠手田は、戸長の公選採用や府県会議員の選挙権資格を政府原案より拡大するように進歩的な発言を行っていた(『明治史料』第五集)。
この三新法は第二回地方官会議で審議されたのち、元老院をへて同年七月太政官布告第一七・一八・一九号として公布された。すなわち、「郡区町村編制法」・「府県会規則」および「地方税規則」である。なお、「府県官職制」(太政官達第三二号明治十一年七月)と「区町村会法」(太政官布告第十八号明治十三年四月)を含めて、明治十年代の地方制度を三新法体制とよばれることが多い。三新法体制をあえて一言で説明すれば、それまでの区制を全廃して、府県―郡区―町村という地方統治機構を創出するものであった。そして、この点で明治二十年初頭に確立するいわゆる明治地方自治制を準備し、その礎石として画期的な意義をもっていたのである(大石嘉一郎「地方自治」『岩波講座日本歴史』近代第三巻)。
そこで、ここでは地方行政に直接関係する「府県会規則」と「郡区町村編制法」の内容について、その骨子をみておこう。