府県会規則

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府県会規則の制定によって、明治十二年(一八七九)四月から全国一斉に府県会が開設された。公選議員をもって組織されたことは後の府県会と同じであるが、その機能や権限は大いに異なり限定され弱小であった。つまり、この時の府県会は、地価割や戸数割など地方税で支弁すべき経費の予算、およびその徴収方法を議することに限られていた。しかも会議の議案はすべて府知事・県令が発し、その議案も府知事・県令の認可を待って初めて効力を有したのである。
 このような狭小な権限に対する唯一の救いは、通常会期中に限り「過半数ノ同議ヲ得タルトキハ」「其府県内ノ利害ニ関スル事件ニ付政府ニ建議」することが認められていたことであろう。そして、この建議に関して、同十四年(一八八一)の滋賀県会で当時の雰囲気を伝える興味深い事例がみられた。それは、議長を務めていた野口忠蔵(蒲生郡選出)が戸長などの給料および役場諸費を、地方税でなく町村協議費から支弁するよう政府に建言することを提案したものである。その理由は、戸長から行政官吏としての性格を除き、純然たる町村の理事者とするためであるとして、次のように述べていた。
 抑(そもそ)モ町村ハ自然ノ部落ニシテ政権ノ得テ其自治ニ干犯スヘキニアラス………戸長ハ所謂(いわゆる)古(いにし)ヘノ庄屋・名主ニシテ町村ノ理事者タルヘキナリ、然ルニ今半官ノ性質ヲ帯ヒテ町村人民ニ臨ム、抑モ亦謂レナキ次第ナリ……故ニ戸長ハ純然タル町村ノ理事者トナシ、其給料及役場諸費ハ宜シク町村ノ協議費ニ任スヘキ者トス。

 しかし、この建議案は時期尚早として否決された。それが否決された背景には、建議内容が当時全国に広がっていた町村自治論・自由民権論と相通じるものがあると考えられたからであるという(『滋賀県議会史』第一巻)。自由民権運動といえば、石部村の三大寺専治(さんだいじせんじ)が一年前の同十三年(一八八〇)九月、国会開設の建白書を元老院に提出していたことも特筆に値するであろう(第一章第三節参照)。
 ところで、府県会議員の選挙は郡区ごとに人口に応じて定員五人以下が選出された(総定員当初六四人、のち五〇~六二人。甲賀郡は五人)。選挙権は満二〇歳以上の男子でその郡区内に本籍を定め、その府県内で地租五円以上納める者に、また被選挙権は満二五歳以上の男子でその府県内に本籍を定め満三年以上居住し、その府県内で地租一〇円以上納める者に与えられた。地租五円以上を納める階層は、地価二〇〇円以上の土地所有者であり、同十三年ごろの全国平均では田畑六反以上、滋賀県では四・一反以上に相当した(『第一回日本帝国統計年鑑』『滋賀県統計書(明治十六年)』)。彼らは、いわゆる中規模の自営農民階層以上に属する限られた人たちであったことは、有権者数によっても知ることができる。表47にみるように、滋賀県、甲賀郡ともに選挙権はおよそ一〇人強に一人、被選挙権は二〇人強に一人が有するにすぎなかった。
表47 三新法下の県会議員有権者数
選挙権を有するもの被選挙権を有するもの
甲賀郡滋賀県甲賀郡滋賀県
人( %) 人( %) 人( %) 人( %) 
明治12年6,472
  136,252(10.3)
  146,14050,278(8.0)30,257(4.8)
  156,19651,387(8.1)28,731(4.5)
  166,196(9.3)49,792(7.8)3,578(5.3)29,360(4.6)
  175,778(8.5)46,782(7.2)3,386(5.0)27,222(4.2)
〔注〕( )内%は甲賀郡、滋賀県の各本籍人口に対して占める割合
  『滋賀県統計書』(明治16年・同17年)、『甲賀郡志』(上巻)などにより作成

 同十一年に制定されたこの府県会規則は、滋賀県では同三十一年(一八九八)七月末まで施行されていた。石部からは、同二十五年(一八九二)に井上敬之助(けいのすけ)が選出されたのが最初である(第三章第三節参照)。