郡区町村編制法と石部

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郡区町村編制法の規定自体は六ヶ条からなる簡潔な法律であり、その要点は次のようなものであった。
 (1) 府県の下に郡区・町村を設ける。
 (2) 右のうち区は、三府(東京・京都・大阪)・五港(横浜・神戸・長崎・新潟・函館)・その他人民輻輳(ふくそう)の(人口密度の高い)地に置く。この時から、都市が郡部と行政上区別されることになった。
 (3) 郡に郡長を置く(ただし、郡会はまだ設置されていない)。
 (4) 町村ごとに戸長一人を置く。やむをえない場合は、数町村に一人としてもよい。

 このように、郡区町村編制法は戸籍法制定時に人為的に設けた区を全廃して、前代からの町村を再び行政の末端に位置づけた。政府は国家委任事務を能率よく処理してゆく上で区制は支障があると判断し、町村にそれを委ねることにしたのである。他方、政府は区町村会法を制定し、府県と郡の監督の下に町村に「自治」を認める方針を明らかにした。国家事業を町村の負担において強力に推し進めていくためには、町村民の同意と支持を必要としたからである。
 しかし、この二つの政策は明らかに抵触しあう面をもっていた。町村「自治」の観点からすれば、町村は小規模で自然村に近いことが望まれたし、そのことによって共同体秩序や隣保共存の精神を維持・発展することも期待されたのである。しかし、行政の円滑な遂行や学校・徴兵あるいは土木といった国家事業を負担する観点からは、町村規模はある程度大きく財政力もあることが要請されたのである。この矛盾はまもなく顕在化するところとなり、山県有朋(やまがたありとも)はじめ政府首脳はこののち一〇年間この問題の解決に頭を悩まし続けることとなった(第三章第一節参照)。
 滋賀県では、区制を採用していた時期も町村を行政の末端に位置づけてきた。町村を活用しないで行政を遂行するのは困難であることを、滋賀県は正当に認識していたのである。そして、この点で政府よりも先見の明があったといえよう。しかし、町村が直面していたさきの状況は、滋賀県下においてもまったく同じであった(『滋賀県市町村沿革史』第一巻)。
 郡区町村編制法は、さきに触れたように一町村一戸長制を原則とした。滋賀県でもこの方針を正則としたが、「小町村アリ前途ノ不弁ナル」ときは数町村一戸長制(連合戸長制)を例外的に認めた(明治十一年八月、「本県郡制施行ノ綱目案」)。石部村は引き続き単独で一戸長制を採ったが、東寺村と西寺村は同十二年九月中旬から十二月初旬の時期に連合戸長制へ移行したと思われる。というのは、西寺村ではこの時期に戸長の交代が行われたが、新戸長は東寺村戸長の吉川傳治郎が兼務することになったからである(『西寺地区共有文書』)。もっとも、『甲賀郡志』(上巻)が同十八年(一八八五)七月以前に「便宜上数村連合して戸長役場を置きたるもの」としてあげている郡内四件の事例には、この両村は含まれていない。しかし、やはり『西寺地区共有文書』にこののちも東・西寺村戸長(同十六年十月三十日)、東西連合戸長(同年十二月五日)、東・西寺村戸長役場(同十七年九月十五日)の呼称がみられるので、両村による連合戸長制は明治十八年七月まで続いたと考えておそらく間違いないであろう。なお、同年七月からは、石部・東寺・西寺の三村による連合戸長制へと移行し、戸長役場所轄区域はさらに拡大した(第三章第一節参照)。
 なお、戸長選挙については、滋賀県でも当時の政情の不安定を反映してたびたび戸長選挙条例を改正した。また、石部地域に関する史料は断片的にしか残っていないので、ここではそれらの内容を詳しくみることは避け、ごく簡単にとどめたい。
 滋賀県は、さきに触れたように、明治六年十一月に初めて戸長選挙規則を定めたが、その後政府の方針の変更によってそれが廃止される(つまり、県令による官選となる)同十七年(一八八四)五月まで、大きな改正だけでも三回(同八年五月、同十二年五月、同十六年四月)、小改正を含めると計五回行っている。大きな改正点だけを通観すると、選挙権・被選挙権の規定はいずれの改正法もほぼ同じで、両者の権利は共通して次のようであった(( )内は八年五月の改正法)。
 (1) 満二十歳以上の男子(十六歳以上の戸主)
 (2) その町村内に本籍住居を定め、または一年以上間断なく寄留する者(本県に在籍し満一年以上その町村に居住する者)
 (3) その町村に不動産を所有する者(不動産を所有する者)

 また、県令はいずれの改正法においても任命権を有したが、さらに選定権や罷免権が認められた場合もあった。概括的にいえば、同十二年五月の改正法は、県令の選定権や罷免権が否定されて本来の公選に最も近い内容を有していた。それに反して、県令が選挙に関与する度合が最も強かったのは、自由民権運動がちょうど高揚していた時期にあたる同十六年四月の改正法であった。それは、県令の権限を次のように規定していた。
戸長ハ該町村ニ於テ五名ヲ公選セシメ、当選人ノ内ニ就キ(県令が一名)選抜シテ之ヲ任用ス、時宜ニヨリ別ニ選任スルコトアルベシ(第一条)

 ところで、郡区町村編制法の制定を契機にして、区制は廃止された。しかし、それは行政区としての機能を失っただけにとどまり、区単位のまとまりはこののちも続いた。甲賀郡第一区を構成していた石部村ほか一〇ヶ村は、「第一区」もしくは「第一組村々」という名称で定期的に連合村会を開き、また連合村費も徴収して、郡長の指導の下に勧業について話し合いをもっていたようである。『西寺地区共有文書』にこれを伝える史料が一件残っている。それは、甲賀郡長田中知邦が明治十八年一月から半年間の「石部村外拾ヶ村(第壱組村々)連合村費」の収支予算を報告したものである(表48参照)。
表48 石部村外10ケ村連合村賢収支予算(明治18年1月~6月)
収入27円70銭 戸別割
総戸数1642戸、1戸につき金1銭5厘0428
 内訳9円32銭7厘石部村620戸
85銭7厘束寺村57戸
79銭7厘西寺村53戸
(以下8ヶ村略)
支出24円70銭 
4円25銭 会議費
20円45銭 勧業費
『西寺地区共有文書』により作成

 連合村会といえば、このほかに「石部村外五十村連合会」や「石部村外百二十三村々会」という甲賀郡全体にわたったものも存在した。『西寺地区共有文書』によると、甲賀郡全体の一二四ヶ村(この時、甲賀郡にはまだ町は生まれていない)は、戸数に応じてやはり連合村費を負担した(明治十八年度の年額は一戸につき二厘六毛余で総戸数一万三、一五九戸)。議員は一村につき三人からなる候補者名簿の中から定員二〇人が選挙で選出された。石部村の山本林助が、同二十一年二月末に石部村外百二十三ヶ村及び蒲生郡上駒月村連合村会議員に当選している(『山本重夫家文書』)。水口村の慶圓寺が会議場で、同二十年(一八八七)十一月の臨時連合村会では高等科甲賀小学校の新築・移転について話し合われたことが伝えられている。
 村会については、石部村や東寺・西寺両村ではどのようであったかについて知る手がかりは少ない。ただ、石部村に同八年八月という比較的早い時期に村会が存在したことを示す珍しい資料がある。それは、滋賀県が石部村々会議員(小島雄作・山本林助)に任命書を交付したものである(写144)。しかし、こののちについては、たとえば滋賀県が初めて町村会規則(甲第三八号)を定めた同十二年五月ごろ、石部に村会が存続していたことさえ確認できない。『滋賀県市町村沿革史』(第二巻)も、石部において「明治十二年の区(ママ)町村会規則の施行状況は明らかでない」と。また、『滋賀県統計書』(明治十六年)は、同十六年末甲賀郡一二四村中に村会の開設を四村(県下では一、六八五町村中二二町村)確認しているが、その四村に石部は含まれていないようである。

写144 村会議員任命書(『山本重夫家文書』)

 なお、同十七年五月、政府が区町村会法を全文改正してその設置を義務づけてからは、一挙に開設をみた。滋賀県では同十七年末で一、六七一町村中一、四〇四町村が、また甲賀郡では一二四村中八四村が町村会を開設した(『滋賀県統計書』(明治十七年))。
 『西寺地区共有文書』にちょうどこの時期の西寺村々会議員の記入された投票用紙(明治十七年九月、写145)と「村会決定表」(同十八年一月)が残っている。後者の内容は、同十八年から五年間村民が倹約すべきことを採り決めたものである。たとえば、一、正月及盆礼ニ重通物廃止、一、年忌法会親戚壱人宛尤モ供養一種一菜之事、一、井掘之節ハ総出之事、など細かく一三項目をあげている。当時、全国的にみられた村々の疲弊が西寺村にもおよんでいた様子をうかがい知ることができる。
 最後に、郡制については、滋賀県は明治十二年五月郡役所設置場所をまず布達し(甲第三二号)、続いて県令によって郡長の選任が行われたのち同年七月郡役所は開庁した。甲賀郡には水口村に郡役所が設けられ、初代郡長は旧代官の子孫にあたるという多羅尾光弼(たらおみつすけ)が務めた。このときの郡制には郡会がなかったので、それが創設される同三十一年までは、国や県の命をうけて町村を監督する官僚機構として機能した。

 


 


写145 西寺村村会議員投票用紙(上)村会決定表(下)
(『西寺地区共有文書』)