地租を新しい体系のものとするには、その前提として全国的な地ならしが必要であった。なぜなら、これまでの地租の賦課やその徴収方法には、幕府や藩によって著しい違いがあったからである。はじめに、明治政府が明治初期にとった土地制度の主要なものをあげてみよう。明治元年(一八六八)十二月の「村々地面ハ、素(もと)ヨリ都(すべ)テ百姓之地タルベシ」とした太政官布告は、近世における領主の領有権を否定したものとして注目される。同四年(一八七一)九月の田畑勝手作や、同五年(一八七二)二月の土地永代売買解禁なども、土地制度上の大きな変革といえよう。特に後者は寛永二十年(一六四三)の禁止令から二三〇年ぶりに土地売買の自由が認められたことを意味する。実質的には売買はあったとしても、土地売買が公認されたことの意義は大きいといえよう。
近代的な地租を体系づけるためには、それぞれの土地の所有者を確認する必要がある。その認定者に地券(ちけん)を交付し、それの保有者を土地所有者と認めることにした。この地券の交付作業は、まず明治四年十二月、東京府下の市街地において行われた。ついで同五年二月、さきの土地売買の自由化にともなう売買譲渡によって、土地を所有した者に地券を交付することが規定された。さらに同年七月から、売買譲渡されない一般の土地についても、その所有者に地券を交付することになった。明治五年が壬申(じんしん)の年であることから、この地券は壬申地券と呼ばれている。
写146 地券渡方規則 明治5年(壬申)9月に作成されたもので、壬申地券を交付する規則が記されている(『小島忠行家文書』)。