壬申地券と地引絵図

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石部町域についての壬申地券交付や地租改正について、それを具体的に示す記録は現在のところみることができない。したがって、滋賀県の布達類からその概要をみることになるが、できるだけ町域に残存する地籍図などの史料を参照したい。
 大蔵省が「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」を公布したのは、さきにみたように明治五年二月二十四日であった。この規則は一四条からなっていたが、同年九月四日に第一五条から第四〇条まで増補された。滋賀県においては同年の八月に「地券渡方規則」(『滋賀県市町村沿革史』六所収、『小島忠行家文書』)と「地所取扱心得書」(『滋賀県市町村沿革史』)を管下に布達した。翌九月の布達において、管下にこれらの規則・同増補および心得書が配布された一冊で不足する村は書林商社で買い求め、よく検討して実施するようにと、それが正確に施行されることをはかっている。
 さきの規則や心得書の公布にあたって、県達は、田畑山林の所有者に対しては一般地券を渡すので九月二十五日までに願い出ることを指示し、またこの地券は人民の所有地を官が保障するものであること、したがって反別は相違なく正確に書き出すこと、過少の申告が後日判明した場合は厳重な沙汰があり、今後地券のない土地は所有地にならないこと、などが記されている。
 地券交付には各郡に一、二名の地券取調用掛を任命して指導にあたらせたが、各町村においては地券下調掛をおいて、その作業に着手した。明治五年十一月二十日には地券取調大帳の雛形(ひながた)が示され、地券が交付されることになった。壬申地券は発行されなかった県もあるが、滋賀県は早い時期に交付を完了したグループに属している(佐藤甚次郎『明治期作成の地籍図』)。
 壬申地券の交付作業は明治五年で完了したわけではなく、翌年以降にも及んだ。滋賀県の同六年(一八七三)七月十八日の布達(第六七八号)は、滋賀郡の区長などに宛てたものであるが、八月二十日までに野帳(やちょう)と地引分間絵図の提出を求めている。石部町内には、大字東寺地区及び石部町役場所蔵の「(東寺村)地券取調総絵図」(縦二八八・八センチメートル、横四八八・〇センチメートル)のほか、西寺村のものが大字西寺地区に、石部村のものが写しではあるが石部町教育委員会に残されている。
 これらのうち、東寺村の「地券取調総絵図」には、百姓代・副戸長・総戸長兼戸長の署名捺印がみられ、明治六年三月二十四日の作図となっている。この年月日はさきの日付よりも早いが、壬申地券地引絵図に属するものである。

 


 


写147 地券取調総絵図 明治6年(1873)3月24日付で、同図の作製にあたった村役人の署名捺印がみられる(右)。裏面には、同図を2枚作製し、県庁と村でそれぞれ保管するよう県令より指示されている(中)。記載の凡例としては田畑などのほかに兀(禿)山の表示がみられ、注目される(上)(石部町役場所蔵)。

 滋賀県下の市町村にはこの年次の地引絵図類が多く現存しているが、これは同じ県の布達に基づいて作製されたことを物語るものである。また同図の裏書によると、各町村は県庁に同じ絵図を二部提出し、うち一部を村方に保管することとして返却している。
 同五年九月作製の「田畑調絵図面」(『山本恭蔵家文書』)や同六年二月調整の「地所取調帳」(『東寺地区共有文書』)などは、壬申地券大帳や地券取調総絵図を作る基礎資料になったと思われる。これらは当時の状況を知る資料となるが、特に地券取調総絵図は地番・字名のほか、田・畑・藪・除地など、多くの凡例が色で示されているので、明治初期の土地利用状況などを知る上にきわめて貴重な資料となる。

写148 田畑調絵図面 「三斜法」と呼ばれる測量によって調査されたことがわかる(『山本恭蔵家文書』)。