滋賀県が最初に「地租改正取調方心得」を管内の町村に布達したのは明治六年十月であった。さきにみたように、同七年にも同八年にも同種の心得書を管下に頒布している。このことは、地租改正がなかなか進捗しなかったことを推測させる。『府県地租改正紀要』では滋賀県の地租改正は同七年十一月に着手して同十年九月に終ったと記しているが、県令松田道之の同年一月十一日の県治所見(『滋賀県議会史』)中には、「既ニ去冬着手セリ」の文言がある。県令の着手というのは事務的な作業を指しているのかもしれないが、明治七年十月の心得書および同八年四月の人民心得書における前文の但し書によれば、同六年にも、同七年十月以前にも改租に着手していたことが知られる。
明治八年八月二十八日に「地租改ニ付等級調査心得書」を布達したのは、不公平な地位等級にならないようにとの要請によるものであろうが、この時期、まだ改租を完了していない町村の多いことを示しているといえよう。
同八年九月三日の布達「滋賀県乙第百七号」(『滋賀県令籠手田安定資料集』)によれば、芝居をはじめ、狂言・相撲や手踊・物真似などの興行を、改租事業の終了まで中止することを命じている。これは、明治八年段階での地租改正が進捗していない状況を物語るとともに県当局が地租改正の進捗に、いかに神経を使っていたかをうかがわせる。ただ同月十九日の布達では、先日の興行の禁止は遊楽のために臨時に興行する場合であって、神社例祭時などにおける競馬・花火などは、慣習の次第を書状にして申し出れば、取り調べの上許可する、としている。
同九年(一八七六)三月二十八日の滋賀権令から地租改正事務局総裁への上申書によれば、滋賀県の地租改正は同八・九両年で実施する予定であったが、同八年中に完了するように変更した、そのこともあって一、五〇〇ケ村のうち、約二〇〇ケ村(地租改正調査復命書では三〇〇余村)に丈量などの間違いが多くみられた。それらを再調査させているが、降雪の時期でもあるので、その完了を待っては進達の時期を失する、ついてはとりあえず昨年の人民申告反別で報告し、追って整理の帳簿と交換するように願いたい、といったことが記されている。これによっても、県当局が早く完了の手続きをとりたい意向であることがうかがえる。
右の上申書に対する事務局総裁の指示は不明であるが『滋賀県史料』(内閣文庫)によれば、滋賀県は明治八年より旧地租法を廃して新地租法に改正することを、同年七月四日に事務局に伺い済みであったこと、ただし、山地の場合は同十年九月十三日に伺い済みであったことが知られる。さきに『府県地租改正紀要』では改租の終了を同年九月としていることを記したが、この年月は山地の改租の完成した時期とみてよいようである。