村会の設立

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江戸時代には財政運営をはじめとする村の自治に関する事項は、高持百姓による寄合(よりあい)の協議を経て執行された。しかし、明治維新後旧慣を無視した急激な近代化政策が実施されると、寄合の機能が低下あるいは停止して、村の中に不協和音が生じる事態も発生したようである。そこで滋賀県は、明治九年(一八七六)十月に「各区町村金穀公借共有物取扱土木起功規則」を制定して、審議機関としての総代制を導入し、金穀公借共有物取扱などの財政行為の実施には、不動産所有者の六〇パーセント以上の賛成が必要と定めている。
 石部地域における村会の設立に関しては不明な点が多いが、明治八年(一八七五)八月二十七日に石部村の小島雄作と山本林助が、滋賀県から村会議員任命書の交付を受けている(『小島忠行家文書』、『山本重夫家文書』)。また、同年十月二十一日付で石部村会議員青木茂平が、議長三大寺専治に「村法改正議題順序建白」を提出して、正副戸長の職務、村方助成・貧民養育・学校のほか、冠婚葬祭・村内の休日などに関する協議を求めている(表50参照)。『小島忠行家文書』の中の、明治十年六月末から七月末にかけての「村会議院決定簿」によれば、前年度の決算方法について取り決めたうえ、学校建設、新村総代の選出、戸別等級更正、用水路の開設など一四項目の議題を協議し決定している。さらに、同十年十一月十七日に、石部村戸長役場から小島雄作へ出された「村会議院別紙之通本日決定ニ相成申候条、御苦労様なから村法改正主法係り兼幹事役御勤メ被成下候様、此段御依頼申上候也」という史料も見られる(『同前』)。当時期の村会の議員数や選出方法などは明らかでないが、これらの史料をみると、江戸時代の村寄合から近代的な議会に移行する過渡的性格をもったものだったと思われる。

 


写150 村会議院決定簿 明治10年(1877)6月末から7月末にかけて、村会で審議され、決議された議題を記録したもの(『小島忠行家文書』)。
 

表50「村法改正議題順序」の内容
一、正副区長戸長役席議
一、正副戸長役始メ末役迄職務改正
  附諸役給料
一、当年御収納取締
一、川筋堤防
一、往還道路修繕橋梁
  附閑道筋
一、貧民養育救助、山林立木養育
  附総地主地等
一、御布告説諭寺院説教
一、村方助成
  附不易入費廃(ママ)
一、祭礼葬礼婚礼
一、出火消防之手当
一、年分村内休日
一、旧来地下払不差配之廉、戸長役引渡勘定
一、学校
一、町名廃号合併
明治8年(1875)、石部村会議長に提出したもの(『石部町教育委員会所蔵文書』)

 明治十三年(一八八〇)四月政府は、「区町村会法」を公布して、全国に統一的な区町村会の導入を図った。ところが滋賀県では、前年五月に第一回県会の審議を経て、「町村会規則」を定めている(七月には内務省の指示を受けて条項を一部改正した新規則を制定)。それによれば、町村会は一町村もしくは数町村連合して開設し、(一)協議費で支弁する経費、(二)地方税の中の戸数割課税率、(三)金穀公借・共有物取扱・土木起功、(四)凶荒予備、(五)小学校、(六)町村内取締が、議定の範囲とされた。選挙・被選挙権者は、一年以上当該村に居住し、不動産を所有する二十歳以上の男子となっている。
 しかし、議決事項は戸長―郡長―県令の順序で報告され、かつ認可を受けることが必要であった。そのうえ、滋賀県は各町村に開設を義務づけたのではなく、適宜開設せよとの方針をとったため、明治十六年までに県下一、六八五町村中わずか二二町村にしか開設されていない。甲賀郡では一二四村のうち四村である(『滋賀県統計書』明治十六年)。町村会の開設は翌年から急増し、同十八年になると県下一、六七三町村のうち一、五七〇町村、甲賀郡では一二四村すべてに開設されている(『同前』明治十八年)。
 こうして、一応民意を反映した村の行財政運営が行われるようになった。同十八年度の石部・東寺・西寺村連合村会は、収入一九七円三銭、支出二二三円三八銭の予算案を議決している(表51参照)。収入に対する三村の負担額は、石部村―一五五円余、東寺村・西寺村―各二〇円余と決められた(「明治十八年度石部村外二ヶ村連合村会決議録」『西寺地区共有文書』)。
表51 明治18年度石部村外2ケ村予算
〔収入〕
項目金額
地価割98円51銭5厘
戸数割98円51銭5厘
合計197円3銭  
〔支出〕
項目金額内訳
戸長役場費168円95銭雑給40円95銭、庁費128円
衛生費24円96銭衛生委員諸費21円96銭、伝染病予防費3円
勧業費36円35銭勧業委員諸費31円35銭、農業会等会費5円
会議費3円12銭書記等給料2円12銭、雑費等1円
合計233円38銭233円38銭
「明治十八年度石部村外二ケ村連合村会決議録」『西寺地区共有文書』より作成