安民米制度の創設

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右に述べたような状況の中で、小作人など貧農層の生活救済に大きな役割を果たしたのが安民米(あんみんまい)制度である。創設者の服部善七は、石部村に生まれ、十三歳の時に神崎郡五個荘(ごかしょう)の豪商外村家に奉公、のち同家の主幹となった人で、学校の設立をはじめ各種の公共事業にも多大な援助を行って、明治十六年十月に没している。
 安民米制度は、明治十三年(一八八〇)に創設された。服部善七が玄米一六五俵、藤谷治右衛門が同一〇俵、村内有志者が同二五俵を拠出して、服部が寄贈した土蔵に蓄えておき、稲の植付時に飯米不足で悩む者に、一戸一俵の割合で貸し付ける制度である。貸し付けは毎年五月に行われ、十二月に回収される。回収の際に得た利子は積立てておき、学校の修繕費用などに使用された。安民米制度は、文化(ぶんか)三年(一八〇六)膳所藩が定めた安民貯蓄法にならったものといわれており、昭和十六年(一九四一)まで存続した。
 服部善七の創設した安民米制度は、周辺の村からも高い評価を受けた。『江越(こうえつ)日報』明治十四年十月十四日号は、次のように報じている。
近江甲賀郡石部村平民服部善七は、名に負かぬ大慈善家にして、近郷誰れ壹人知らぬ者とて無く、仏々と呼做せしが、氏は近来物価騰貴に際し、貧民の困苦を痛く憐み、好き方法もあらば是を救はん者(ママ)と一策を案じ、我日常の食料(ママ)及ひ他の入費を節減し、是を与へは幾分かの補助にならん者(ママ)とて、此程米六十六石と之を蓄ふ土蔵一ヶ所迄を添へ(米代価六百六十円、土蔵の価百円)差出しが、早くも其筋の聞処となり、銀杯三重壱組を賞賜(しょうし)されたり

 なお、明治三十五年(一九〇二)には、松籟山(しょうらいやま)の山腹に、服部善七の功績をたたえた紀恩碑が建てられている(写151)。

写151 安民米紀恩碑 明治35年(1902)柿ヶ沢の地に建てられたもの。