自由民権運動と甲賀郡

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有司専制政治の打破・国会開設を目標に掲げた自由民権運動は、明治七年(一八七四)一月板垣退助らが「民撰議院設立建白書」を政府に提出したのを契機に始まり、明治十年代に入って大きな高揚をみせた。当初士族が運動の中心であったが、次第に豪農層などにも広がっていった。
 滋賀県では明治十三年(一八八〇)ごろから自由民権運動が活発になり、同年一一七回、翌十四年には七六回の政談演説会が開かれている。同十三年七、八月には自由民権運動最高の理論家植木枝盛(えもり)が彦根と草津を遊説したが、中でも草津での演説会は盛況を呈した。また、明治十四年度滋賀県会における、府県監獄費の地方税支出否決という事態も、県内の自由民権運動の高揚を背景にしたものであった。同十五年になると、大津自由党と湖北に滋賀県自由党が結成されている。
 このような中で、甲賀郡にも自由民権運動の波が及んできた。同十三年十一月東京で開催された第二回国会期成同盟大会の参加者の中に、甲賀郡水口村三〇名総代青山薫という名前を、湖東・湖北の四郡有志一六〇名総代藤公治・代木孝内の名とともに見ることができる(『自由党史』)。青山薫は大阪府の出身で、同年八月の蒲生郡八幡町(近江八幡市)における政談演説会で演説するなどの活動を、滋賀県内で行っていた(『滋賀日報』明治十三年八月二十四日号)。こうした中で、自由民権運動の趣旨に共鳴した水口村の人々が、青山に総代の役割を託したのであろう。また、明治十四年度滋賀県会で活躍した林田騰九郎(とうくろう)は、甲賀郡選出の議員であり、同十四年十一月十五日京都で開かれた憲法草案の起草を討議した関西府県議員懇親会に出席し、かつ同年十二月四日彦根で開かれた第二回近江自由大懇親会には幹事として名を連ねている(『京都新報』明治十四年十一月十七日号、『江越日報』同年同月二十五日号)。さらに、『日本立憲政党新聞』同十五年二月三日号には、膳所(大津市)在住の高田義甫(よしなみ)が、滋賀・栗太・野洲・甲賀郡の有志とともに、自由主義政党結成に尽力中との記事もみられる。
 ところで、『京都新報』同年二月十日号に、次のような記事が見られる。甲賀郡長田中知邦が、「向日該郡自由団結会」に出席して、「我れこそは目下郡長の地位にありて、稍々官権主義を主張すべき筈なれど、素と我が精神ハ自由主義あるを以て、殊更ら今日この席に與(あず)かりて諸君に同意を表せり」と述べたというものである。もちろん田中知邦はこの記事の内容を強く否定しているし(『同前』明治十五年二月十七日号)、郡長に対する県の規制の強さからみても誤報だったといえよう。甲賀郡内での民権政社の存在も、現在のところ確認されていない。ただ、このような風聞は、甲賀郡内において自由民権思想がある程度の広がりをもっていたことを示しているのではないだろうか。前野村・市場村・大沢村(以上、土山町)などにおいて、毎夜法律研究会が開かれているとの記事もみられる(『京都滋賀新報』明治十六年二月十四日号)。
 自由民権運動は、明治十七年(一八八四)の自由党解党を契機に一時期頓座するが、明治二十年代に入り帝国議会の開設が間近に迫ってくると、大同団結運動となって、再び活発化する。滋賀県でも同二十二年九月草津に湖東苦楽府(くらぶ)が設立されたのをはじめ、政治結社の結成が相次いだ。さらに、同二十三年四月大津交道館で近江自由大懇親会が、板垣退助を招いて開催されている。
 甲賀郡内で自由民権運動の趣旨に共鳴した人々の中には、これらの活動に積極的に参加した者も少なからずいたであろう。後年滋賀県の政界で大きな力を振るうようになる石部村の井上敬之助は、当時「同志とともに、特に県下の青壮年層に呼びかけて同党(板垣退助が再興した愛国公党―筆者注)の主義綱領を宣伝し、自由民権思想を熱舌に託して鼓吹」したと、彼の伝記に記されている(木村緑生編著『井上敬之助』)。また、明治二十七年八月草津で開かれた、二年前に亡くなった植本枝盛の追悼会には、甲賀郡から七人の参加者があったことが確認できる(『草津市史』第三巻)。
 同二十三年七月に実施された第一回衆議院議員選挙において、甲賀郡は栗太・野洲郡とともに、滋賀県第二区となった。第二区では激戦の結果、湖東苦楽府(くらぶ)幹事山崎友親が当選している。山崎友親は、五人の滋賀県選出議員の中で、唯一の民権派議員であった。