三大寺専治は、嘉永(かえい)二年(一八四九)三月十五日に石部村の植村仁左衛門の五男として生まれ、幼年時に石部宿本陣三大寺小右衛門の養子となった。幼名は信太郎と称した。成長して養父を助け本陣の業務に携わったが、明治維新を機に廃業。その後石部村戸長を経て、明治七年八月甲賀郡第一区長になり、同十八年の連合戸長役場制度実施の際には、初代の石部村外二ヶ村連合戸長に就任している。特に学校教育の振興に熱心であり、道路や野洲川・落合川の堤防修築工事にも私財を投じて、県令籠手田安定(こてだやすさだ)の厚い信任を受けたといわれている。公務退職後は運送業・新聞業・活版業などを営み、石部農会の事業にも関係して、大正十一年(一九二二)三月二十七日に死去した(「三大寺専治履歴」『三大寺光家文書』ほか)。
写152 三大寺専治 国会設立建白などのほか地方政治の各方面で業績を残した(三大寺光氏所蔵)。
三大寺専治の建白書は、明治十三年九月三十日付で、「謹而奉建言上表」と題し、元老院(政府の立法諮問機関)に提出された。原文は国立公文書館に保存されている。建白書の概略は以下の通りである。
まず、「明治新政ノ初メ主上(しゆじよう)(天皇のこと―筆者注)親シク五条ノ聖誓ヲ立テ玉フ、其一ニ曰(いわく)広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ(中略)等ト、宣誓ノ鴻旨実ニ蒼生無窮ノ大幸福ナリ」などと記して、明治維新の改革を高く評価したのち、「客来爾来一ニモ国会二ニモ開設ト鳴声ヲ顕スヲ見聞ス、我国遅速共開設セザル可カラザル国会ナルコトハ、野夫モ信シテ疑ヲ容レザル所也」と国会開設の必然性を強調している。だが一方で、「偶然国会論起リシヨリ以来、ソノ開設ヲ我政府ヘ促迫スルコト屡也ト見ユ、然レドモ政府之ヲ速ニ開立シ玉ハザルハ必ス深監明決アルベシト雖モ、乍恐野生等モ方今ノ形況ヲ愚察スルニ、国会時機不至ノ際却テ開設アリテハ、国家ノ災害ヲ招クニ斉シカラン」とも述べている。すなわち、三大寺専治は、他の多くの建白書や請願書とは異なって、国会の早期開設を求めたのではなかった。
「僅(わずか)ニ地方税出納ノ一部分ヲ議スル県会ノ如キスラ、事理ニ疎ク公議輿論ノ主意ヲ弁ヘザル議員」が存在する状況下において、「国事ヲ議スルコト」は到底無理であるというのが最大の理由であった。また、即時に国会が開設された場合、華士族の「禄券公債廃消ノ論出ルコト必定」であるが、その際には「無産士族」の反発を招き、「国難茲ニ生セン」との指摘も見られる。そこで、三大寺専治は、「暫ク時機ヲ待シテ、賢明当任各君何カ今ヨリ良法ヲ諸置アリテ、数年官途ニ熟達ノ各君ト、平民学業ニ進歩シ政務上ニ熟心ノ者トヲ併セテ撰挙セル時機ニ臨ミ、国会開設」すべきであるとの漸進論を提起したのであった。
三大寺専治の建白書は、この時期の県会に対する批判姿勢を強くもつとともに、籠手田(こてだ)県令の信任を受けた行政実務担当者としての政治的立場を色濃く反映したものと思われる。なお、国会の構成、たとえば一院制か二院制かといった問題や、憲法などに関してはまったく言及されていない。
写153 三大寺専治国会開設建白書(『公文附録』)(国立公文書館所蔵)