同年十一月九日には、藤谷九郎次・藤谷治右衛門・内林七兵衛・小島雄作が、『琵琶湖新聞』創刊の願書を滋賀県に提出している。藤谷九郎次は、石部村の出身で、青年期に東京に遊学、帰郷後新聞の重要性を痛感して、大津船頭町に琵琶湖新聞会社を設立したのであった。これに対して、滋賀県令松田道之は、翌年三月八日「琵琶湖新聞ト相唱ヘ刊行ノ義聴届候ニ付テハ、近々発兌(はつだ)候条、知覚ノ歩ヲ進ル者ハ購看シ、知識ヲ開キ事業ヲ可興、且諸事件汎告等ノ類ハ右会社ヘ上梓(じようし)示談可致事」という布告を出している(『府県史料滋賀県史』一〇)。松田県令の好意的な態度は、県下に開化政策を浸透させるための広報紙的な役割を、『琵琶湖新聞』にも求めたからであった。
こうした中で、『琵琶湖新聞』は、同六年三月に県下で二番目の新聞として創刊された。創刊号の緒言には、「新聞ノ徳タルヤ大ヒナリ、内チ知見ヲ闢(ひら)キ、外カ事業ヲ施シ、不知不識(しらずしらず)文明ノ域ニ進ミ、開化ノ室ニ入リ、上下言路ヲ通ジ、勧懲善悪ヲ判ス、故ニ官許シテ天下ニ公ニスル所以(ゆえん)也、庶幾ハ四方ノ君子、上之公裁ヨリ下モ俚言ニ至ルマデ、縷々記載シ吾社ニ投入シ玉ハンコトヲ、是今日ノ必務ニシテ開明ノ徳ニ報ズル所以ナリト爾云」と記されている。松田県令の期待に応えて、文明開化の先導者の役割を果たそうとする、藤谷九郎次らの自負がうかがわれるであろう。
さらに、同六年九月十五日に滋賀県へ提出した「改正発兌(はつだ)規則」には、次の条文が見られる(『府県史料滋賀県史』一〇)。
第一条
第二条
第三条
第四条
第五条
第六条
(後略)
一、是迄片仮名ヲ加ヘ刊刻仕候処、往往難読趣申出候向モ不尠候間、己来平仮名ヲ以テ傍訓ヲ付ケ、童蒙婦女ニモ読ミ易カラシメ、以テ聞見ヲ弘メサセ度候事
第二条
一、御政法御沿革ハ勿論都テ官令御告諭等、中ニハ字義ノ解シ難ク候ヨリ会得致シ兼御趣意ヲ誤リ、是カ為公私ノ際紛紜ヲ生シ候儀モ侭有之、甚歎ケ敷次第ニ付、御布令ノ御文意ニ依テ伺ヲ経委敷新聞ニ義解ヲ加ヘ発兌(はつだ)仕候ハハ、方今ノ御趣意モ速ニ貫徹可仕ト奉存候間、邇後右ニ注意仕出版仕度奉存候事
第三条
一、御布告ノ外御建議書且地券調査ノ実検其他御改正ノ件々、人民必用ノ分毎部ニ掲ケ、或ハ附録等ニ必刊行仕度候事
第四条
一、御公裁ハ勿論諸訴訟原被人曲直ノ事実等ハ、勧懲ノ最一ニ付、伺ノ上刊行仕度候事
第五条
一、知識ヲ開クヲ以テ目的トス可キ御条例ニ付、諸州新聞ハ勿論諸書籍中事業ニ益アル事ハ抜萃仕度候事
第六条
一、諸方新聞ニ怪乱奇談ノ類不尠、看客衆クハ之ヲ好ムト雖モ、当新聞ニハ怪乱ヲ不記、疑団ハ氷解ヲ専トシ、都テ世ニ裨益アランヲ要度奉存候事
(後略)
漢字に平かなでルビを付して読みやすくするとともに、開化的な記事をより多く掲載するとしている。特に、布令・布告などに関しては、滋賀県にその趣旨を確認したうえ、解説を加えて掲載し、諸政策の浸透に一層努力することを強調している。現存する『琵琶湖新聞』の各号をみると、確かに一般社会の事項よりも県の布令・布告が記事の多くを占めている。
琵琶湖新聞会社は、大津の本局のほか、彦根・長浜・八日市・海津・草津など県下の主要地に出局を設けていた。石部では小島金左衛門宅に出局が置かれた。印刷は京都で行われ、発行部数は創刊号・第二号が各二、〇〇〇部、第三号から第五号まで各一、六〇〇部、その後徐々に減少して第二一号では九〇〇部となった。発行回数は当初月三回、のち月五回で、定価は創刊時一部三銭五厘である。また、琵琶湖新聞会社は、小学校の教科書などを付録として出版していた。
写154 琵琶湖新聞第1号
『琵琶湖新聞』の経営は創刊当初から苦しかったが、明治八年(一八七五)七月休刊を余儀なくされ、同十二年十月には正式に廃刊となった。なお、藤谷九郎次は、同九年甲賀郡第一区長に就任し、同十九年(一八八六)六月に死去した。