八石教会所

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幕末期の農民指導者の一人に、大原幽学(おおはらゆうがく)がいる。彼は、天保(てんぽう)十三年(一八四二)から下総国香取郡長部村(千葉県干潟町長部)に本拠を置いて、性学(せいがく)という自己の思想を説いて、付近の農民の教化をはかり、農村の興隆に尽力した。性学とは、神・儒・仏の融合を基本とし、これに幽学自身の体験を交えて体系化した思想で、各個人分相応の礼の弁(わきま)えや家族主義道徳の尊重を特徴としている。この性学が明治になって石部地域に入ってくることになる。
 大原幽学の後を継いで性学の二代目教主となった遠藤亮規(りょうき)は、門弟四人を連れて京都へ向かう途中の明治六年(一八七三)八月二十二日、石部の旅館八幡屋で病死した。門弟たちは石部村字青木ケ上に遠藤亮規の墓を建てるとともに、鈴木利喜太郎・仁瓶慎則の二人が墓守として石部にとどまった。鈴木利喜太郎は同十二年、仁瓶慎則は同二十五年まで存命したが、その間性学によって村民の教化をはかった。教化を受けた内貴長兵衛は、親の居宅を青木ケ上に移し、「教生庵」と名付けた説教所を設けて家族集会の場とした。続いて、同二十二年(一八八九)八月には、石部村字丸山に石毛源五郎の主宰する「八石(はっこく)教会所」が設立されて、人々の修業の場となった。八石とは遠藤亮規の出身地下総国長部村の地名である。こうして性学は石部地域に根をおろすことになった。同四十三年(一九一〇)『石部町是』作成の際に、修養会という風俗矯正団体が結成されるが、会則の第一条には「本会ハ大原幽学翁ノ教旨ニ則リ、天理倫常ノ道ヲ攻究実践スルヲ以テ目的トス」(『石部町是』)と記されている。

 


写155 遠藤亮規墓(左)、八石教会所(右)