寺子屋教育

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江戸時代は、武士の子弟の教育機関として、藩校や家塾などがあり、武士として要求されるある程度の学問教養が与えられていたが、江戸時代中期以降、各地の町や村に寺子屋が設けられ、子弟に学業を修めさせていた。寺子屋では日常生活に必要な基本的な語彙を往来物(おうらいもの)(数字・名頭・村名・郡名・国名や日常的単語・単文を書簡文体に編んだ教科書)によって学習した。何年も寺子屋へ通ったものの中には、中国の古典である四書五経などの素読をはじめ、読み書きソロバン(加減乗除)の技能を修得したものもあった。このほか読書には、『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』・『百人一首』・『今川状』、寺子屋によっては、『女大学』・『唐詩選』・『大和俗訓』なども用いた。寺子屋の修業年限は別に定めていなかったが、長いものは七、八年、短いもので一、二年であった。寺入りは正月と盆の年二回で、これも中途で入るものもあり、年令は八歳から十四歳を基準とした。男女の席は別であり入門順に向かって席をとった。休日は年頭の元旦から七日まで、正月は十五・十六日の小正月、二月初午、三月彼岸の中日、六月植え付けのころの二〇日間、秋の彼岸の中日、収穫時四〇日間、将軍通行又は多人数宿泊の時、氏神祭の三日間、毎月の一日・十五日などで、また師匠の都合の悪い日も休みであった。
 この地で教材として使われた往来物の代表的なものは、東海道五十三次の宿駅を巧みにおりこんで綴られたものであった。
 都路は五十次(いそじ)余り三つの宿、時えて咲くや江戸の花、波静かなる品川や、はや、程が谷のほどもなく、……(中略)……よわい久しき亀山と、留める人なき関ならじ、賤が家ならぶ坂の下、誰(たが)、土山に座せしめん、むれたる露も水口に、にごらぬ末の石部かな、野辺はひとり草津分、げにもまもりの大津とは、はなのにしきの九重に、こころ浮きたつ都ぞと、君の寿、いわいたりけり。かしこ。

 寺子屋で使われた算数の教科書として有名なものに、『塵劫記(じんこうき)』があった。江戸時代初期の数学者吉田光由(みつよし)の著作で初版が寛永(かんえい)四年(一六二七)である。杉算・入子算・継子算・ねずみ算などがもられ、明治になっても使われていた。
 石部村における明治初年の寺子屋は、明清寺が男二〇人・女五人、浄現寺が男二三人・女六人、西福寺が男一七人・女七人で、いずれも創始不詳で明治七年(一八七四)まで読書・習字を教えていた。石部村の人口は、同五年当時四、三八五人で、戸数は八五三戸であった。服部円海・津田芳順などが師匠として活躍した。東寺・西寺村における寺子屋の状況は確かではないが、東寺村では十王寺、西寺村では西教寺に設けられ、それぞれの住職が師匠であったようである。