この地で教材として使われた往来物の代表的なものは、東海道五十三次の宿駅を巧みにおりこんで綴られたものであった。
都路は五十次(いそじ)余り三つの宿、時えて咲くや江戸の花、波静かなる品川や、はや、程が谷のほどもなく、……(中略)……よわい久しき亀山と、留める人なき関ならじ、賤が家ならぶ坂の下、誰(たが)、土山に座せしめん、むれたる露も水口に、にごらぬ末の石部かな、野辺はひとり草津分、げにもまもりの大津とは、はなのにしきの九重に、こころ浮きたつ都ぞと、君の寿、いわいたりけり。かしこ。
寺子屋で使われた算数の教科書として有名なものに、『塵劫記(じんこうき)』があった。江戸時代初期の数学者吉田光由(みつよし)の著作で初版が寛永(かんえい)四年(一六二七)である。杉算・入子算・継子算・ねずみ算などがもられ、明治になっても使われていた。
石部村における明治初年の寺子屋は、明清寺が男二〇人・女五人、浄現寺が男二三人・女六人、西福寺が男一七人・女七人で、いずれも創始不詳で明治七年(一八七四)まで読書・習字を教えていた。石部村の人口は、同五年当時四、三八五人で、戸数は八五三戸であった。服部円海・津田芳順などが師匠として活躍した。東寺・西寺村における寺子屋の状況は確かではないが、東寺村では十王寺、西寺村では西教寺に設けられ、それぞれの住職が師匠であったようである。