明治二年二月五日政府が発した「府県施政順序」の一項に、
一、小学校ヲ設クル事
専ラ書字、素読算術ヲ習ハシメ、願書、書翰、記牒、算勘等、其用ヲ闕サラシムベシ、又時々講談ヲ以テ国体時勢ヲ弁士、忠孝ノ道ヲ知ルベキ様教諭シ風俗ヲ敦クスルヲ要ス、最才気衆ニ秀デ学業進達ノ者ハ志ス所ヲ遂ケシムベシ
として小学校の設立を奨励している。
明治四年七月、政府は文部省を設置し、近代学校制度の樹立に着手した。明治政府のこれらの方針を受けて膳所県は草津村に同年「郷学校を設之法」を通達したが(『草津市史』第三巻)、当然石部村にも同様に通達されたと考えられる。実際小島本陣内に石部学校が開設されることになった。
同年三月、膳所県より庄田弥男次、森本某が教授として小島本陣の学校へ派遣され、生徒を募集した。開校は四月十五日であった。「福島家日記」によると「明治四年小島本陣ニ石部小学設立、入学ス。同五年石部小学廃校、多田実成塾入門、同六年多田先生八幡ニ移転ニ付、保田大畢先生塾入門」と記述されている。
写156 小島本陣 明治4年(1871)、石部学校が小島本陣内に開設された。小島本陣は明治以降も天皇行幸時の休泊所や学校、郵便局など公的機関の一部として利用された。
明治五年八月、「学事奨励ニ関スル被仰出書」(太政官布告第三四号)により「必ズ邑(村)ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人ナカラシメン」ことが目標とされ、学問を一部の人々が独占することなく、教育は人民の自由・自発によって行われるものとし、学費・衣食を官給する慣例を否定した。学校の経費は民費によることを原則として、その不足を学区で支弁し、また政府から補助しながら全国に小学校を建設しようとした。全国を八大学区に分け、さらに各大学は三二の中学区に、中学区は二一〇の小学区に分けられ、各区に一校ずつ全国で五万三、七六〇の小学区を設立する構想であった。
同五年九月、校舎を浄現寺に移し、山岡暹定が石部学校の専任教員として着任した。同六年、県は各町村へ「立村方針概略」を配布し、小学校設置基準を示して寺子屋を廃して、新学制による学校設立を勧奨した。滋賀県は四中学区、七四七小学区に分け小学校を設立することになった。滋賀県は第三大学区で、甲賀郡は第一〇番中学区で八一小学区に分けられた。
東寺村・西寺村でも学校が設立された。同六年四月、東寺村副戸長北村文三郎・西寺村戸長竹内與兵衛らの努力によって東寺村長寿寺を仮用して学校を創設した。両村の寺子屋に通っていた児童を就学させ、五〇余人が入学した。校名を詳議学校と定め、藤岡徳充を招聘して教員とした。