学制下の石部学校と詳議学校

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太政官布告で発布された学制は欧米先進国の教育制度を範としたもので、教育の目的を立身出世・治産・昌業を明確にし、学問は個人の立身に欠くべからざるものであることを強調している。国民全般の知的水準の向上のために学校の開設を重視したこの教育政策は、わが国の義務教育の就学率が一〇〇パーセントに近い高率となる基となった。明治六年五月十九日、文部省布達第七六号による小学教則第一、第二章には、小学は上下二等、上等は十歳より十三歳、下等は六歳より九歳とした。下等小学は八級に分けられ毎級六ケ月の修業であった。入学時は八級で試験によって次第に進級し第一級に至るように定められている。修業年限は上下共に各四年であった。
 その後石部村では明治七年五月十日、校舎を浄現寺から旧伝馬所(現石部農協付近)へ移し、学制による石部学校を創設して、県学務課員川村祐吉・中村庄太郎を来賓に迎え、開校式をあげた。この日を、石部小学校の創立記念日に制定した。戸長里内清吉・三大寺専治は本校開設時の功労者であった。この伝馬所の校舎は同十年になって一部校舎を改修した。改修工事費は一、三〇〇円、当時米が一俵一円一七銭であった。二年後一月、学区取締を公選し、十月に小学校々則、教則を定めた。
 同八年一月、文部省布達第一号によって学齢を満六歳より満十四歳までとした。同年五月、東寺村山本伊八が詳議学校の保護役に任ぜられ学校を管理した。当時昇級や卒業は試験がありきびしいものであった。
 同九年二月七日、小学校則および一月に定められた小学校試験規則によって、第一回の卒業試験を行った。受験したものは下等八級二〇人であった。
 同十年七月、東寺村にある詳議学校は、西寺校生徒に不便なため西寺村戸長竹内與兵衛、東寺村戸長山本角治郎の発起・努力により、両村中央の字平甲(現児童館所在地)に校舎を新築することになり、十一月に着工、翌年四月完工して来賓を迎え落成式をあげた。
 同十一年九月五日、詳議学校の生徒が、三雲学校で夏見・美松(現平松)・惜陰(現岩根)・速音(現正福寺)六校合併で初めて定期卒業試験を受けた。詳議学校受験生数は不詳だが、受験生全部で八九人、及第生は四三人であった。その時の監督斉藤寿蔵、学区取締は谷覚造であった。

 


写157 詳議学校鬼瓦(右)と卒業証書(左) 鬼瓦は石部小学校に保管されているもの。卒業証書は毎級6ケ月の修業であったため、試験に合格すれば1年間に2級進級し、2枚の証書を得られたことになる(竹内淳一氏所蔵)。

 学制が軌道にのりつつある中で、同十二年一月一日、この年から新年祝賀式を挙行した。職員・理事者・生徒一同が学校に集まり、教員が祝詞を述べ終って、生徒一同へみかんをお祝いに渡した。この新年式は昭和四十三年まで毎年続いた。