その後石部村では明治七年五月十日、校舎を浄現寺から旧伝馬所(現石部農協付近)へ移し、学制による石部学校を創設して、県学務課員川村祐吉・中村庄太郎を来賓に迎え、開校式をあげた。この日を、石部小学校の創立記念日に制定した。戸長里内清吉・三大寺専治は本校開設時の功労者であった。この伝馬所の校舎は同十年になって一部校舎を改修した。改修工事費は一、三〇〇円、当時米が一俵一円一七銭であった。二年後一月、学区取締を公選し、十月に小学校々則、教則を定めた。
同八年一月、文部省布達第一号によって学齢を満六歳より満十四歳までとした。同年五月、東寺村山本伊八が詳議学校の保護役に任ぜられ学校を管理した。当時昇級や卒業は試験がありきびしいものであった。
同九年二月七日、小学校則および一月に定められた小学校試験規則によって、第一回の卒業試験を行った。受験したものは下等八級二〇人であった。
同十年七月、東寺村にある詳議学校は、西寺校生徒に不便なため西寺村戸長竹内與兵衛、東寺村戸長山本角治郎の発起・努力により、両村中央の字平甲(現児童館所在地)に校舎を新築することになり、十一月に着工、翌年四月完工して来賓を迎え落成式をあげた。
同十一年九月五日、詳議学校の生徒が、三雲学校で夏見・美松(現平松)・惜陰(現岩根)・速音(現正福寺)六校合併で初めて定期卒業試験を受けた。詳議学校受験生数は不詳だが、受験生全部で八九人、及第生は四三人であった。その時の監督斉藤寿蔵、学区取締は谷覚造であった。
写157 詳議学校鬼瓦(右)と卒業証書(左) 鬼瓦は石部小学校に保管されているもの。卒業証書は毎級6ケ月の修業であったため、試験に合格すれば1年間に2級進級し、2枚の証書を得られたことになる(竹内淳一氏所蔵)。
学制が軌道にのりつつある中で、同十二年一月一日、この年から新年祝賀式を挙行した。職員・理事者・生徒一同が学校に集まり、教員が祝詞を述べ終って、生徒一同へみかんをお祝いに渡した。この新年式は昭和四十三年まで毎年続いた。