寛永(かんえい)十年(一六三三)以降、継飛脚(つぎひきゃく)米を給された東海道各駅では、幕府公用の書状及び御用物を宿継(しゅくつぎ)で送るため、継飛脚要員の人足を常に準備していた。
石部宿の継飛脚米は二四石四斗七升七合で享和(きょうわ)三年(一八〇三)の記録によると継飛脚は六人であった。
問屋場(とんやば)が取り扱う書状は、主に老中・京都所司代・大阪城代などが発するもので、丁重な扱いが定められており、江戸・京都間を最急便は約六〇時間で無賃で継立て、宿駅での重要な任務を担っていた。
元禄(げんろく)三年(一六九〇)に来日したドイツ人エンゲルベルト・ケンペルはその著『江戸参府旅行日記』の中で宿駅と継飛脚との関係について次のように述べている。
街道に沿った主な町や村には、旅行者のために領主が設けた駅舎があり、そこでたくさんの馬や荷物運搬人や配達人など、旅行を続けるのに必要なものを、いつでも一定の賃銀で雇うことができ、疲れた馬や、ここまで雇ってきた人たちを交換できるようになっている。日本語で宿と呼ばれ……たくさんの書記や記帳係が駅逓の事務を執り、……将軍や大名の手紙を運ぶためには、昼も夜もそれを持って走ってゆく男(飛脚)が待機している。この飛脚は、少しの遅れもなく休まずに走り続け、次の宿駅まで手紙を持ってゆく。
この幕府公用の継飛脚に対し、民間の通信を営業としたのが町飛脚である。天明(てんめい)二年(一七八二)に幕府より定飛脚(じょうひきゃく)としての称を公許された定飛脚(大阪では三度飛脚と称し、京都では順番飛脚と称した)問屋は、独自の逓送手段を所有することなく、幕末にいたるまで、宿駅の人馬を定賃銭(定賃銭の元の賃銭は正徳(しょうとく)元年(一七一一)に定められた人足一人一里二〇文、本馬はその二倍)に準ずる賃銭で利用していた。
すなわち近世においては、飛脚=通信と宿駅=交通とは不可分の関係であり、わが国の郵便創業をみる場合には、それと不可分な関係にある宿駅制度をみなければならない。